2009/11/25 塩川宏郷作成はじめに
ここでは、東ティモールに在住する邦人あるいはこれから長期間滞在しようと考えている方への情報提供として、東ティモール国内の感染症対策について述べたいと思います。学術的な報告ではなく、医務官の実体験に基づくアドバイスですのでお気軽に読み進めてください。全部読むのが面倒な方は項目表題だけでも流し読みする、あるいは表だけでもプリントアウトして感染症予防の参考にしていただければ幸いです。
1.東ティモールにおける感染症
1)病名の混乱「かぜはインフル、インフルはグリッペ」。
東ティモールの公用語はテトゥン語、ポルトガル語とされています。このことは医療・医学用語にもあてはまるのですが、国内の医療機関に勤務する医師たちの国籍はさまざまです。従って医療機関内で用いられる言葉もさまざまであり、若干の混乱を引き起こしています。
日本では、一般的に言う「かぜ」は難しく言うと「ウイルスによる上気道炎」つまり目に見えないウイルスという病原体が鼻やのどの粘膜から侵入して炎症を起こしている状態を指します。症状はもちろん発熱・鼻水・鼻づまり・くしゃみ・咳というセットですが、ここ東ティモールでは、これらの症状セットを「インフルエンザ」と呼んでしまう人が多い。新型インフルエンザに神経質な日本人医師は、ローカルスタッフが「うちの子がインフルエンザになって」などと話しているのを聞くとどきっとしてしまうわけです。あるいは症状にテトゥン語の「病moras」をくっつけて病名にしてしまうことも多々あります(たとえば「発熱病moras isin manas、鼻水病moras inus beenなど」。
さらに混乱を引き起こしているのはポルトガル語。ポルトガル語ではかぜのことをコンスティパサウンconstipasaoというのですが、私たちが学校で習った医学英語ではconstipationは「便秘」のことです(実はこちらに赴任したての時に、「コンスティパサウンの薬が欲しい」と受診したローカルスタッフに危うく「下剤」を渡しそうになったという笑えない体験があります)。
では今流行中の新型インフルエンザ、すなわち豚インフルエンザあるいはA型H1N1インフルエンザウイルスによる感染症は何と呼ぶかというと、答えは「グリッペgripe」です。グリッペ・ファヒgripe fahi(豚インフルエンザ)、グリッペ・アー・アガ・ウン・エネ・ウンgripe A H1N1(インフルエンザA型H1N1)、テレビやラジオの放送でこの言葉が聞こえてきたらちょっと注意してくださいね。
2)マラリアよりも結核が大問題。
東ティモールで臨床的に大問題になっている感染症は「結核」です。2007年の統計によりますと、年間の患者発生数は3000人程度でマラリア(約21万人)よりははるかに少ないのですが、数の問題ではありません。結核はマラリアよりもオソロシイのです。
マラリアは人から人には伝染しません。また診断はさほど困難ではなく、治療薬があって治癒可能であり治療期間もせいぜい2~3日です。それに対して結核は人から伝染しますし(後ほど説明いたしますが「空気感染」します)発症するのに数年~10年以上かかる場合もあり、症状もわかりにくいし結核菌を顕微鏡で発見するには特殊な染色法が必要で診断が難しい。さらに治療は最低でも6ヶ月、毎日薬を飲み続けなければならないので、途中で治療をやめてしまう人も多い。その結果中途半端に治った患者が菌をばらまき、普通の抗結核菌治療に耐性を持つ菌が増えてきてしまうというやっかいな病気です。
私たちは高血圧や糖尿病を慢性疾患と呼びますが、ここ東ティモールでは慢性疾患といえば「結核」です。東ティモール人の3人に一人は結核患者だ、とも言われていますがそれも決して大げさではないと思います。
3)子どもと外国人はマラリアに弱い。
感染症に対して私たちの体は「免疫」という防御機構を用いて対抗します。通常は1度かかった感染症には2度とかからない、という便利なしくみです。このしくみを利用したものが「予防接種」です。予防接種は細菌やウイルスによる感染症で特に有用ですが、マラリアは細菌やウイルスではなく「原虫」という虫の一種による感染症で普通の免疫ではたちうちできません。マラリア原虫に対する人間の免疫機構はまだ解明されていないので、予防接種も開発されていません。
しかし、マラリアにかかったことがある人は、2回目、3回目と症状が軽くなることが経験的に知られています。マラリアをかぜみたいにとらえている大人もいますね。部分的な免疫(完全には発症を予防できないが症状を軽くできる)が獲得される機構が人体にはあるらしいのです。マラリアは初感染がもっとも危険。つまりこれまでマラリアにかかったことがない子どもや外国人にとってマラリアは最大の脅威となるわけです。
2.東ティモールで「発熱は1にマラリア、2にデング、3・4がなくて5に結核、忘れちゃいけない腸チフス」!
東ティモールの医療機関では、発熱を訴えて受診する人が非常に多いですが、そんなときにお医者さんが頭の中で熱の原因として考えるのは、マラリア、デング熱、腸チフス、結核などです。このうち、治療薬があるのはマラリア、腸チフス、結核。治療薬がある病気を見落とすことは許されませんので、このように暗記しておくといいでしょう。
表1に東ティモールでみられる主な感染症について、症状と診断、治療法についてまとめてみました。
表1:おもな感染症の症状と診断・治療
感染症 |
症状(発熱以外) |
診断・治療 |
マラリア |
悪寒・ふるえ・全身倦怠感 |
血液検査(顕微鏡による観察)。治療薬あり。 |
デング熱 |
悪寒・頭痛(目の奥が痛い)・粘膜や皮膚からの出血 |
場合によっては血液検査・ターニケットテスト。治療薬なし。 |
結核 |
咳・血痰・寝汗・体重減少 |
痰の検査。治療薬あり。最低6ヶ月は治療を続ける。 |
腸チフス |
下痢・嘔吐・湿疹(バラ疹) |
症状で診断。治療薬あり。 |
インフルエンザ |
関節痛・頭痛・咳・鼻水・下痢・嘔吐・全身倦怠感 |
鼻の粘膜をとって診断する方法あり。治療薬あり。 |
1)マラリアの診断は指先から少量の血液を採取し、スライドガラスになすりつけて染色して顕微鏡でのぞきます。赤血球の中にマラリア原虫がいれば診断確定。通常はアーテミシンという物質を含んだ薬(商品名「コアーテム」という)を内服します。
2)デング熱には血液検査で抗原を検出する検査キットがありますが、ティモール国内では販売されていないようです。デング熱で引き起こされる出血熱については簡単に診断できる方法があります。ターニケットテストといって、普通に血圧を測ってそのあと血圧計を巻いた腕を観察する方法。点状に出血していたら危ない。残念ながらデング熱は診断できたとしても治療薬はありません。それからデング熱については何度も感染しますし、2回目以降の感染で重症な出血熱になる危険性が高くなります。
3)結核の診断はマラリアと同じく顕微鏡を使いますが、こちらの検体は「痰」です。結核菌がみつかれば間違いありません。ただこれは肺結核の場合だけで、結核は肺以外のあらゆる臓器に障害を引き起こしますので痰に結核菌がいなくても結核でないとは言えないのです。治療は通常4種類の薬を内服します。
4)腸チフスは特徴的な皮膚所見その他の症状で診断できます。抗生物質で治療できます。
5)インフルエンザの診断は、鼻の奥に綿棒を突っ込んで少量の粘膜をこすりとって、抗原を検出するキットで診断します。ウイルスの表面抗原(HとかNとか)を調べるのにはより精密な検査が必要です(東ティモール国内ではできません)。治療はご存じオセルタミビル(商品名「タミフル」)内服。その他に吸い込む方式の薬(商品名「リレンザ」)もあります。
3.「病原体」は「感染経路」を通ってやってくる。
感染症が成立するためには3つの要素が必要です。「病原体」「感染経路」それから私たち感染される「宿主」。この3つのうち1つでも欠ければ感染症は成立しません。つまり感染症は「予防できる病気」ということになります。感染症の病原体と感染経路を理解することで、その予防法がみえてきます。表2は、主な感染症の病原体と感染経路をまとめたものです。
表2:おもな感染症の病原体と感染経路
感染症 |
病原体 |
感染経路 |
マラリア |
原虫(マラリア原虫) |
ベクター(蚊)経由 |
デング熱 |
ウイルス(デング熱ウイルス) |
ベクター(蚊)経由 |
結核 |
細菌(結核菌) |
空気感染 |
腸チフス |
細菌(チフス菌) |
経口感染 |
インフルエンザ |
ウイルス(インフルエンザウイルス) |
飛沫感染 |
1)マラリアは原虫という非常に原始的な「虫」の一種によって引き起こされます。マラリアに感染した人間の血を蚊が吸い、その蚊が別の人間の血を吸うことで感染します。このような蚊のことをベクターと呼びます(運び屋という意味)。
2)デング熱も同じく蚊をベクターとしています。原因はウイルスです。マラリア原虫もデング熱ウイルスも蚊の唾液腺細胞の内部に生きたままいるのですが、なぜかそこでは増殖しないので蚊に対しては無害なのです。
3)結核は結核菌によって引き起こされます。感染経路は「空気感染」。これは咳などで排出された結核菌が非常に長期間大気中に浮遊することを意味します。また地面に落ちた結核菌が土埃と一緒に巻き上げられて感染を引き起こす可能性もあります。
4)腸チフスはチフス菌という細菌(サルモネラ菌と親戚)のついた食べ物を食べることで感染します。口から入って腸の中で増殖することを「経口感染」と呼びます。
5)インフルエンザは、ウイルスを含んだ飛沫(咳やくしゃみなどで排出される唾液など)が粘膜に付着することで感染します。
4.感染症対策のツボは「感染経路を絶つ!」
感染症の成立には「病原体」「感染経路」「宿主」の3つが必要、と説明いたしました。宿主をなくすわけにはいきませんし、病原体をすっかり消滅させてしまうことも難しい。もっとも簡単でかつ有効な感染症対策は「感染経路を絶つ」ことです。表3には、感染経路別の主な感染症とその対策についてまとめました。
表3:感染経路別の感染対策
感染経路 |
主な感染症 |
対策・注意点 |
ベクター経由 |
・マラリア |
|
飛沫感染 |
・インフルエンザ |
|
空気感染 |
・結核 |
|
経口感染 |
・A型肝炎 |
|
血液感染または濃厚接触感染 |
・B型肝炎 |
|
1)ベクター(蚊)対策
東ティモールにいるベクターで最も重要なのは、何と言っても蚊です。マラリア・デング熱とも命に関わる重症な病気ですので、蚊対策をすることは命を守ることにつながります。
通常蚊は服の上から吸血することはありません(蚊の吸血針は布の繊維を通りません)ので、肌の露出をさけることが有効です。特に野外で活動するときは靴下もはくようにしましょう。デング熱ウイルスのベクターであるネッタイシマカは足首を狙うことが多いと言われています。防虫剤(虫除け)も有効です。特に肌に直接塗るタイプは濃度が高いので効果的です。自然に蒸発してしまうので2~3時間おきに上塗りするようにします。蚊帳は、徹底して使用すれば最も効果的な対策です。特に、マラリアにかかった人は必ず蚊帳の中で寝るようにします。マラリア原虫を持つ蚊を作らないようにするためです。マラリアは人から人には伝染しません。必ず「人→蚊→人」です。デング熱も同じ。
蚊そのものを退治することも感染経路を絶つことになります。蚊の幼虫(ボウフラ)は水たまりに生息しますので、水たまりをつくらないこと、ドブは掃除して流れるようにすることが大切です。ボウフラから成虫の蚊になるのに2週間程度と言われますので月に2回ドブ掃除すればいいということになります。殺虫剤も効果的ですが、いわゆる農薬の一種ですので人間の体に無害であるとは言えませんから使用は必要最低限にしたいものです。蚊取り線香は「蚊に刺される機会を減らす」つまりベクター対策としては有効であるけれども、マラリアの発生を抑制したという事実はないようです。煙が人体に与える影響についても十分検討されてはいません。
2)飛沫感染対策
飛沫感染によって伝染するのはインフルエンザ、およびその他のいわゆる「かぜ」などです。飛沫とはくしゃみや咳などによって体外に排出される唾液や痰で、この中にウイルスがひそんでいます。飛沫の粒子は大きいのでだいたい1mくらいで地面に落ちてしまいます。したがって対策としては、患者からは最低1mは離れる、患者から分泌されるものを吸い込まないようにする、触ったあとは手を洗うというのが基本です(これをスタンダードプレコーションと呼んでいます)。感染者にマスクをつけさせるのも効果的です。ただし、ウイルス粒子は非常に小さいのでマスクをつけることで完全にシャットアウトすることは困難です。ウイルスは通常粘膜から体内に侵入します。皮膚からは浸入できないので手についたウイルスは水で洗い流す(石けんをつかうとなおよい)ことも有効です。粘膜にウイルスが付着すると数分で粘膜内に入り込みますので「外から帰ったらうがい」はウイルス感染予防にはなりません。
3)空気感染対策
主な感染症は結核。さらに、麻疹(はしか)、水痘(みずぼうそう)のウイルスも空気感染します。これらは非常に感染力が強いので、簡単にいうと患者とすれ違っただけでも感染する。麻疹・水痘はウイルスが病原体ですが、感染すると100%発症するというオソロシイものです。ですが、空気感染するのはこの3つだけ(あとSARSというのもありますが)。しかも3つとも予防接種があります。予防接種はとても有効で、麻疹・水痘は一生免疫が続きます。
結核の場合はN95マスクという特殊なマスクを着用することで、ある程度結核菌を吸引してしまうことを予防できます。ただN95マスクは装着しているととても息が苦しく、つけたまま日常生活を送るのは難しいです(診察のときだけつけるということが多い)。
4)経口感染対策
病原体を食べてしまうことで感染するもので、腸チフスはすでに出ていますが、その他に病原大腸菌O-157・コレラや腸炎ビブリオ(いわゆる食あたり)、ウイルス感染ではノロウイルス(生牡蠣!)、ロタウイルスやA型肝炎、特殊なものではアメーバ赤痢があります。すべて口から入って腸管で増殖、アメーバの場合は血液に入り込んで肝臓まで行くこともあります。対策は、とにかくあやしいものを口にしないことです。水の透明度は関係ありませんのできれいな水が安全とは限りません。食べる前に疑うことがまず大切でしょう。
食べる前に、水で洗い、皮をむき、加熱する。自分でやることが重要。それができないときはその食べ物は「なかったことにする」(Wash it, Peel it, Boil it, or else Forget it.)。
なお、A型肝炎についてはワクチン接種が有効です。
5)血液感染・濃厚接触感染対策
これは比較的まれな感染症ですが忘れてはならないものです。B型肝炎・C型肝炎ウイルスは血液によって感染します。AIDSウイルス(HIV)も血液感染です。多くは出産時の出血によって母親から子どもに感染する(垂直感染)ものですが、出血を伴うあるいは粘膜面が直接接触するような濃厚接触(性行為)によっても感染します。性行為感染症にはそのほか、梅毒・淋病・クラミジア感染症があります。
対策は「普通の生活をすること」です。「危険なことはしない・させない・近づかない」が鉄則です。
なお、B型肝炎についてはワクチン接種が有効です。
おわりに
感染症について、正しい知識をもち、自分のからだを守り、楽しい東ティモール生活を送りましょう。
不明な点、ご質問がありましたら、大使館医務官までメールなどでお問い合わせください。
番外編:東ティモールの特殊な感染症
当館医務官は医師になって20年以上の臨床経験がありますが、東ティモールにきて以下の感染症をはじめて見ました。日本ではほとんど経験されない非常にまれな感染症です。
- マドゥラ足(Madulla foot)
- 牡牛の首(Bull’s neck)病
- モーラス・レプラ(leprosy)
- ポッツ(Potts)病
- 犬笑い(dog-like laugh)病またはトリスムス・サルドニクス(trismus sardonicus)
- メイオリドーシス(meiolidosis)
どんなものか詳しく知りたいかたはどうぞお問い合わせください。(塩川)
(了)
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