~ 東ティモール旅行記 ~
0.はじめに
東ティモールを旅行すると話すと、ティモールコーヒーを連想するコーヒー好きも数人いたが、「どの辺りにあるんだっけ?」とか「何があるの?」と聞かれる。「危険なんじゃないの?」と心配してくれる人も多かった。
私は2010年8月11日~8月16日、東ティモールを旅行した。現地滞在が3泊4日という短い期間ではあったが、私が見た東ティモールは手付かずのままの素晴らしい景観を持ち、のどかで、平和な国という印象だった。
1.バリ経由ディリへ
インドネシア・バリから、今回の旅の目的地である東ティモールの首都ディリまでは、メルパチ航空が1日1便往復している。
トランジットのためバリのホテルで一泊し、翌朝、バリ・デンパサール空港へ向かう私は、少なからず緊張していた。それまで、メルパチ航空なんて、名前すら聞いたことがなかったからだ。
照明の薄暗いデンパサール空港のメルパチ航空チェックインカウンター前には、黒ずくめの制服を着込んだ、図体の大きい頑強そうな男達が数十人いた。国連警察(UNPOL)に派遣されるマレーシア警察の一行のようだ。ますます緊張したが、搭乗ゲートから飛行機近くまで移動するバスに、東ティモールの子供たち数人がワイワイと乗り込んできて、何やら楽しそうだ。
飛行機はほぼ満席状態。前席の東ティモールの少女が、後ろ向きに背もたれにもたれかかり、私をじっと見る。大きな目にくっきりした大きな黒い瞳。見つめられると、その眼力に思わずたじろいでしまう。
機内食はクロワッサン、メインが肉と野菜のソテー、カットフルーツに、キットカットのチョコ。メインのお皿にアルミホイルの蓋がしてあったので、温かいのかと思いきや、冷たかったのが難点だが。
IN Flight Shopで、メルパチ航空の飛行機を模ったキーホルダーと模型(ボタンを押すと、離陸時?のエンジン音がしてランプが光る)をお土産に購入。
ディリ国際空港(プレジデンテ・ニコラウ・ロバト国際空港)に着陸し、タラップを降りて建物まで歩く。田舎の鉄道駅舎のような空港建物で、入国ビザ25ドルを支払い入国審査を受けて、いざディリへ。
2.ディリ市内
空港近くの道路の両脇には、ヤシの木の林が続く。2年ほど前には、ここに多くの難民キャンプがあったそうだが、今は影も形もない。ただただ、南国らしい光景が広がる。
アジアの途上国のイメージとして、日本では車検が通らないようなオンボロ車が真っ黒い排気ガスを吐きながら走っている光景を、思い浮かべる人も多いだろう。だが、ここディリは全く違う。
まばゆいばかりの黄色いタクシーが行き交う。製造から5年未満の車しか輸入できないそうで、だから、日本と比較しても新車が多い印象だ。2年前より交通量が増えたそうだが、それでも信号があるのは首都ディリだけ、それもまだ数えるほどだが、きっと必要性に応じて、これから増えるのだろう。
小学校の校庭でサッカーの試合をしていた。校庭には溢れんばかりの見物人。校舎の二階から、身を乗り出して応援している子もいる。ワイワイと賑やかだ。小学校は、午前と午後の二部制だそうだ。
海沿いの国道を車で走る。砂浜でバーベキューをする人々、海沿いの歩道で語らう人々。
南太平洋の海を一望できる海沿いの国道に面して、各国大使館の豪奢な建物が建ち並ぶ。日が暮れて真っ暗闇の中でも、現地の人々は海辺でバーベキューを楽しんでいた。(1)クリストレイ
ディリの観光名所としてまず挙げられるクリストレイは、岬の先端に立つキリスト像で、ディリ市内やもっと遠方からも見ることができる。
ディリ市内から車でクリストレイに向かった旅行最終日は、ちょうど潮が引いていて浅瀬が広がり、遠浅の海で、人々は魚を取り、海水浴を楽しんでいた。海沿いをサイクリングやジョギングしている外国人が多い。
東ティモールでは海にワニがいるから海水浴はできないと、日本で聞いてきた私は、てっきり、海岸にワニがウジャウジャいるものと想像していた。実際にワニを見た人はいるそうだが、2年滞在してまだ一度も見たことがない人もいる。東ティモール人にとって、ワニはとても大切な生き物で、たとえ人間がワニに噛まれたとしても、それは噛まれたほうが悪く、ワニを退治しないそうだ。
クリストレイ付近の海水浴場はトイレ、駐車場完備。屋根付きのレスト・スペースが点在する。
小型バスで乗り付け、ピクニックにやってきた家族連れは、レスト・スペースを確保して、のんびり寝そべっていた。
車を駐車場に停め、クリストレイを目指して、遊歩道の階段を上がっていく。世界で2番目の大きさを誇るというキリスト像は、地球儀の上に立っていた。(ちなみに1番大きいキリスト像はブラジルにあるそうだ。)岬の尾根を挟んで、両側の崖が海へ落ち、左右両方に弓形の海岸線が広がる絶景ポイントだ。遠く海を眺めてうっとり。
ふと足元を見ると、確かにゴミが散乱。これを非難する向きもあるそうだが、日本へ帰国した日、テレビで、ゴミ処理費用捻出のため多摩川河川敷でのバーベキューを有料化するというニュースを見た。他人の振り見て我が振り直せなのかなと思った。
(2)レジスタンス
次に、レジスタンスという史実に触れられる場所も訪れた。
レジスタンス博物館は、独立運動の年表や使用した武器が展示されている。日本の独立支援組織が送ったという衛星通信できるトランシーバーも展示されていた。
また、2000年のまだ国連暫定統治下の東ティモールからシドニーオリンピックに女子マラソンで出場した、アギダ・ファティマ・アマラルさんがいらした。こちらが日本人だとわかると、「東京国際女子マラソンにも出場した」とか「有森さんを知っている」と、はにかみ気味に話してくれた。
次に、真実和解委員会博物館を訪れた。インドネシア時代に刑務所だった建物で、今はほんの一画だけに、当時の拷問部屋が残されている。窓もないコンクリートに囲まれた狭い部屋に、大勢の囚人が詰め込まれる。膝の高さあたりまで水を入れられ、座ることができず、立っているしかない囚人たちは、眠ることすらできない。壁には、囚人たちの悲痛な叫びが残っている。一歩外に出ると明るい陽光に目が眩んで痛いほどだが、厚い壁に隔てられた囚人部屋は湿っぽく、真っ暗だった。
サンタクルス墓地はサンタクルス虐殺のあった場所だ。真っ白い墓碑が陽光に輝き、華やかな造花が飾られ、日本の墓地とはイメージがだいぶ違う。ただ、だいぶんお墓が混雑していて、雑然とした迷路のようだった。
(3)市民生活
市民生活を垣間見ることができる場所を案内してもらった。
ハリラランのローカル市場は、粗末な掘立小屋が迷路のように立ち並び、キャベツ、じゃがいも等の野菜や大豆等の豆類などの商品が店先に並ぶ。
さぞかし安いのだろうと思いきや、予想に反して結構高い。キャベツ1個が1ドル。小粒のじゃがいもが6~7つで1ドル。日本でも、もっと立派なジャガイモ数個がそのぐらいの値段で買えるときもあるのにと、ついつい比較してしまう。どうやら日本の物価と同等、と考えたほうがよさそうだ。
市場では、生きた鶏が売られている。闘鶏用の雄鶏だ。東ティモールでは闘鶏がさかんで、ディリの、いや、東ティモールの至るところに雄鶏がいる。地方都市のマウベシのメルカード(市場)でも闘鶏用の雄鶏が売られていたし、ディリ郊外の旧日本軍の壕を見に行ったとき、崩れた崖の上になんとか留まっている家でさえ、雄鶏を飼っていた。
ディリ市内のスーパーマーケットは、洗剤等の生活用品や、チョコレートやクッキーなどのお菓子、コーヒーやお茶、ジュースなどの飲料、野菜や果物など、いろんなものが手に入る。物価はやはり日本と同程度だ。今のところディリで唯一だそうだが、ガソリンスタンドに24時間営業のコンビニがある。しかし今のところ、本屋や映画館といった娯楽施設がないそうだ。ディリ市内にショッピング・モールを建設(中断)中で、いつ完成するのか不明だそうだ。
海沿いの国道脇には露天が並び、バナナやヤシの実など果物を売っている。皮の赤いバナナは小ぶりだが、味が濃くて、とっても美味。ザボンは、皮の砂糖漬けしか食べたことがなかったが、果肉は見た目がルビーのグレープフルーツのようで、シャキシャキした歯触りで、さっぱりと酸っぱい。
(4)レストラン・ホテル
私が食事したディリ市内のレストランはどこも美味しかった。
ディリに到着した日の夕食は、オーシャンビュー・レストランで食事をした。
海浜に建っているオープン・エアのレストランで、オレンジ色の太陽が水平線に没する様を眺めながら、のんびり食事ができる。夕刻に海辺でジョギングする人のシルエットを眺めながら、ゆったりした時間を過ごせた。その日に採れた魚を料理してくれるのだが、私が行った日は風が強く、海が荒れて不漁だったため、残念ながら、魚料理は食べられなかった。グリル野菜や海老のボイル、鶏肉やマッシュルーム等のスープ煮、ミーゴレン(インドネシア料理の焼きそば)を頼み、三人でシャアした。飲み物は、ヤシの実に穴を開けてストローを挿しただけのヤシの実ジュースを頼んだが、さっぱりしていて、水代わりにちょうどいい。
焚いた白米(長細い米で、タイ米みたい)をお皿の真ん中に盛り、白米の周りに、取り分けたおかずを載せて食べるのだそうで、インドネシアの食べ方に由来するそうだ。美味しかったし、味付けは恐らく日本人の口に合うと思う。
二日目のランチは、ホテル・ディスカバー・インのダヤレストランで。ディナーメニューは豊富だそうだが、この日のランチメニューはラビオリとピザの2種。私はラビオリをチョイス。ラビオリの具は鶏肉とマッシュルームのソテーで、ラビオリにかかったチーズソースも美味しかった。
マンゴーバナナジュースはどろっとした甘酸っぱいネクターで、私のお気に入り。ディリ市内スーパーでもビン詰めジュースで売っていた。ピザなど食べ切れなった分は、店員に頼めば、お持ち帰り用のプラケースに入れてくれる。
ディリを離れる前、日本大使館隣り、海沿いの国道に面したエスペラナーダレストランで喉を潤した。日本人の誰かがここのアボカド・チョコレートという飲み物を大層気に入ったという話を聞いて、ぜひチャレンジしたかったのだ。アボカド・チョコレートはどろっとした飲み物で、癖がなくコクのあるアボカドに、チョコレートミックスのソフトクリームのような混ぜ具合で、チョコレートの風味と甘さがプラスされ、なかなか美味しい。アボカドは森のバターと言われるぐらい栄養があるし、日本にあってもよさそうな飲み物だった。このレストランの裏にはホテルがあり、以前、日本大使館員さんも住んでいたそうだ。
(5)コーヒーの選別作業見学
今回、私は、ディリ市内にあるCCT(Cooperative Cafe Timor:ティモール・コーヒー共同組合)で、コーヒー集荷選別作業を特別に見学させて頂くことができた。
収穫が終わり、コーヒー豆が集荷されてくるこの時期だけ、季節労働者として、700人もの女性たちが全国各地から集まってきて、コーヒー豆の選別作業に従事する。スターバックスが年間16万トンを買い付けているそうだ。
(6)ディリ郊外の旧日本軍壕
舗装されていない狭い山道を行く。崖崩れがあったようで、車ではそれ以上は行けなかったため、車を降りて、少しばかり歩いたが、断念。旧日本軍の壕は見学できなかった。
崖にしがみ付くように建てられた家、その家の土台のすぐ下で、崖崩れが起きたようだ。どう見ても危険なのだが、それでも彼らはそこに住んでいる。これも市民生活の一面なのだろう。
3.リキサ県へ半日旅行
朝8:30にディリを出発し、海沿いの国道をひたすら西方へ向かう。海岸沿いのくねくね道は舗装されているが、でこぼこしていたり、陥没している部分もある。右側には海が広がり、左側には乾季に入ってだいぶん赤茶けた山々が連なる。太く、ずんぐりとしたサゴ椰子が生える。サゴ椰子は樹幹にでんぷんを蓄えるため、飢饉のときにサゴ椰子を切り倒してでんぷんを取り、飢えをしのいだそうだ。
大戦時、東ティモールを占領していた日本軍は、当時日本軍にたった3隊しかなかった自動車部隊を東ティモールに展開し、道路をせっせと作ったそうで、今でもジャパン・ロードと呼ばれるそうだ。そのジャパン・ロードのひとつかどうかは知らないが、西へと進んでいく。
山の上に、突然、茅葺きの家が見えた。国道を左に折れ、急な上り坂を登る。ティバールの13伝統家屋で、地方毎に特徴ある伝統家屋を一堂に集めた観光名所だ。と言いたいところだが、音楽が聞こえてくるので誰かいるようなのだが、出てくるわけでもなく、家屋の説明書きがあるわけでもない。観光スポットとしてもうちょっと整備すれば、きっといい観光名所になるだろう。
そこから海を見る。眼下には左に塩田があり、見渡す限り、南太平洋が広がる。そして背後には荒涼とした山々が連なる。特に眼下に広がる海は絶景だ。通常5月に乾季に入るのに、今年は8月になっても雨が降ったそうで、そのせいか塩田の小屋から煙は立っておらず、まだ営業していなかった。
更に西へ進む。
茅葺き屋根に竹でできた壁の、軒の広い農家らしき家が点在し、庭には鮮やかなブーゲンビリアの花が咲く。車を避けようともせず、犬が道をのそのそと歩き、だから車が犬を避けて走る。時々橋を渡るが、乾季なので川は干上がり、川底から砂埃が上がる。
リキシャにはNGO・OISCA(オイスカ)の農園があり、農業研修を行なっていると聞いた。
やがて、建物が立ち並び、人々が集まっている場所に出る。リキシャの町だ。
リキシャの教会は東ティモールの三大虐殺事件のひとつが起こった場所だ。
リキシャの教会のすぐ近くに、海岸が広がる。白い砂浜に青い海、ヤシの木が茂り、誰もいない。砂浜の白い石は大理石らしい。
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プライベートビーチを満喫し、リキシャの町を後にして、更に西へ進む。車で1時間ほどだろうか。人々が集まり、海側にお土産屋が数軒並ぶ。マウバラの町だ。
マウバラにはポルトガル時代の要塞があり、2台の大砲が海に向かっている。要塞内で、コーヒーを飲んだ。日差しは強いが、木陰に入ると、暑さを感じない。
海側の土産物屋にはパーム・リーフを編んで作った、お皿や小物、吊るし雛のような飾りが並ぶ。私は乾きもののおつまみ入れに使えそうな、小振りなお皿を50セントで購入。
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一路ディリへ、帰路の途につく。
塩田の近く、遠浅の海では、水牛が群れをなして歩んでいた。珍しい光景に写真をぱちり。
途中、タシトルに寄る。国道から逸れ、小高い丘を登ると、頂上には教会と前ローマ法王のヨハネ・パウロ二世像が建つ。パウロ二世像が手を差し伸べる先は、クリストレイだそうだ。
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丘の頂上から西を見ると、まっすぐな海岸線が続く。シンガポールの企業が投資してゴルフ場とリゾートホテルを建設予定だそうで、今から楽しみだ。丘を下る途中、ディリ方向に、PKO派遣時の旧自衛隊宿営地が眼下に広がる。旧宿営地にはトラックやプレハブの建物等が多数残っているが、東ティモールが有効利用できるように残していったものだそうだ。
さて、ここからディリはすぐ近く。ランチに間に合うようにディリに戻った。
4.アイナロ県マウベシ日帰り旅行
朝8時ディリ出発。マウベシのポシャーダを目指して、南方の山岳地帯へ向かった。
急峻な山道は舗装されてはいるものの、雨季に崖崩れがあった箇所は、道路も大なり小なり陥没している。
南部の町へ向かう長距離バスは、日本の温泉旅館の送迎バスぐらいの小さなマイクロバスで、途中で何台か追い抜いた。東ティモール人は痩せて小柄な人が多いが、それでも多くの乗客が詰め込まれ、窮屈そうだ。通常の路線バスはトラックの荷台に乗るようなもので、座り切れなければ立ち乗りする。バス停らしき場所に人々が集まり、老若男女がバスを待っていた。
急な山道を一気に登ると、眼下にディリ市内を、はるかかなたに海を一望できる。しばらくすると、遠くに、東ティモール最高峰の霊峰ラメラウ山が見える。人々が巡礼に訪れる山だそうだ。
がたがた道のせいか、急なくねくね道のせいか、身体が左右に揺れる。やがて、家が建ち並び、市場に人々が集まる町らしき光景が目に飛び込んでくる。アイレウ県アイレウの町だ。ポルトガル人虐殺記念墓地を訪れた。東ティモールは大戦時に3年半、日本軍の占領下にあったのだが、中立を保っていたポルトガル人十数名が日本軍により虐殺され、この墓地はそのポルトガル人の墓地だという。墓地近くで、子供たちがリムを転がして遊んでいた。更に南方へ進む。馬がゆっくり草を食む、のどかな景色が続く。
前方には、川に橋が掛かる。しかし橋を渡らず、橋のすぐ脇、乾季で水量の少ない川を横切る。橋は眼鏡橋のような形で、口径の大きなドラム缶を並べて橋にしたみたいだ。
しばらくは遠くに山々を望みながら、牧草地が続く。山に囲まれた棚田の光景は、まるで日本の田舎のようだ。
こんな山岳部でも電柱が等間隔に並んでいるのだが、電線が張られていない。
山間部に入り、直射日光の当たらない日陰が続く。山道の両側ずっと、崖の上にも下にも、コーヒーの木がまるで雑木林のように植わっている。これがマウベシ・コーヒーだ。プランテーションのような、整然とコーヒーの木が植えられた大農園を想像していたが、全く違っていた。
梢に、白い花が数輪、残っていた。鼻を近づけると、かすかな甘い香りがする。咲き乱れる頃は、キンモクセイのような香りに包まれるそうだ。別の場所の梢には、コーヒーの赤い実も残っていた。
この辺りの高原は朝晩が冷え込むらしく、すれ違うトラックのようなバスの乗客が、厚手そうな長袖を着ている。
日本ではクリスマスの鉢植えのイメージしかないポインセチアだが、東ティモールではポインセチアの木が自生している。
山道を進んでいくと、いつのまにかコーヒーの林が消え、赤茶けた岩が剥き出しだ。
途中で道を逸れ、ポシャーダの見える、見晴らしのいい場所で車を停めた。こんな崖の上に、家がある。庭にコーヒーの実を広げて、干していた。まだ日干し途中だったが、少しばかりを購入した。
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<コーヒー農家の家族と筆者>
ここで購入したコーヒー豆は日本に持ち帰って日干しして、豆を選別して、皮を取ってグリーンビーンにし、焙煎して、ミルで挽いて・・・と、手間をかけて味わった。
もうしばらく車に揺られる。私が訪れた日は雲ひとつないぐらいの快晴だったが、雲海の中に山々が浮かぶ光景もまた大層素晴らしいそうだ。さて、ランチに間に合うぐらいの時間に、マウベシのポシャーダに到着。
マウベシのポシャーダはポルトガル時代の砦の跡で、ホテルとして宿泊もできる。
チキンが大変美味しいそうだが、焼き上がるまでに1時間近くかかるため、到着したらまず注文。手入れの行き届いた庭には、バラ等の花々が咲く。眼下にはマウベシの町はもちろん、あちこちの谷あいの村が小さく見える。視線を上に向けると山々が連なり、360度の大パノラマが広がる。
昼間はそれほど涼しくないが、高原だけあって暑くはない。
実に静かだ・・・と思いきや、こっちの村から「コケコッコー」、呼応するごとく、あっちの村から「コケコッコー」。闘鶏用に飼われているのだろう、あちこちで雄鶏が鳴くのが、ちょっと可笑しい。
芳しい香りに誘われて、ポシャーダの正面玄関を入ったすぐの食堂で待っていると、チキンが一人一羽ずつ。チキンは大変美味しかったし、ポテトフライや野菜のソテーも美味しかった。
さて、ポシャーダを後にして、更に南へ進み、サメ・アイナロ峠ヘ。
峠を越える風が、耳元でビュービューと音を立てる。東ティモールの少女3人と出会う。こんな大自然の中で生活できるなんて、どんなに素晴らしいだろうと羨ましく思う半面、いったいどこからどうやって来たのだろうと不思議に思いつつ、しばしの間、大自然を満喫した。
さて、後は来た道をひたすら、ディリへ戻る。
途中、マウベシのメルカド(市場)に立ち寄る。露天に、バケツに入ったコーヒー豆(グリーン・ビーンの状態)、ソラ豆、カゴに入った雄鶏、バナナ、等々。ここでもコーヒー豆を購入。メルカドの近く、
日本のNPOであり、マウベシでコーヒー生産者支援事業を実施しているパルシックの事務所に立ち寄った。ここで働く日本人女性にお会いできればよかったのだが、この日はちょうど土曜日、ディリへ行ってしまったそうで、残念ながらご不在だった。
ここからは一路、ディリへ戻り、16:30ぐらいに到着。
5.東ティモールで仕事をする日本人の方々とお会いして
ODAで、モラ橋梁建設・べモス取水建設プロジェクトのため東ティモールでお仕事をしていらっしゃる、日本工営、三祐コンサルタンツ、大日本土木の社員の方々や奥様方にお会いする機会があった。
日本で橋を架けるときは、レインボーブリッジ等のようにデザインも重視してそれだけのために設計するけれど、途上国援助で橋を架ける場合は、プロトタイプを設計して流用すれば安価に抑えられるのではないかというお話は、納得しながら伺った。様々な途上国でのお仕事を経験されている方が多く、ご経験やご苦労話、06年の東ティモールからの脱出時のお話、踊りまで見せて頂き、大変有意義な時間を過ごすことができた。
また、絵葉書を出しに行った郵便局で、日本から地図作成指導のために東ティモールに派遣されている方の奥様とご挨拶したが、ディリで三人のお子さんを育てているそうだ。
そして、CCTのコーヒー集荷選別作業を見学できたのも、CCTで働いていらした看護師さんのご紹介があったからこそ、お忙しい中、お時間を割いて見学にも付き合って頂いた。東ティモールで、たくましく、とてもチャーミングな日本人女性にお会いできて、幸せだった。
6.お土産
タイス
東ティモールの伝統的な綿織物。縞模様を基調としたものが多いようだが、ワニの模様や縁起物の模様を織り込んだものもある。来客を歓迎する際に、首からタイスを掛けるのだそうで、私も掛けてもらった。
ディリ市内にはタイス・マーケットといわれる一画に、安価なタイスのお店が並ぶ。東ティモール産も勿論あるが、インドネシア産も多いそうだ。
女性の自立支援に取り組んでいるアローラ・ファウンデーションがタイス製作を支援しているお店を訪れた。ここならば東ティモール産のみ。バッグや巾着袋、小物が並んでいた。デザインも素敵だし、すごく欲しいバッグもあった。日本から色止めの技術を導入して、色落ちしないようにできればもっといいのにと、ちょっと残念に思った。
ディリのホテルで最も格式が高いというホテル・ティモールのお土産屋さんにもタイスの小物(メガネ入れやコインケース、カードケース等)が並んでいた。
コーヒー
CCTの売店で、焙煎済のコーヒー豆や挽いた豆を売っていた。ただし、細かくパウダー状に挽かれたものもあり、これはペーパードリップには適さないそうだ。インドネシアでは、お湯にコーヒーと多量の砂糖を溶かして撹拌し、コーヒーが沈殿するまでじっと待ち、上澄み液を飲むというコーヒーの飲み方があるようだが、東ティモールも同じ飲み方をするようだ。食文化はインドネシアの影響をかなり受けていると感じた。
市場や農家でグリーン・ビーンを購入したが、時期が合えば、それも楽しい。
蜂蜜
養蜂用の箱から蜂蜜を採取するのではなく、マウベシの崖や木に巣食った蜂の巣を採取して採った蜂蜜なので、ある意味、命懸け。日本のNPOが指導・支援しているそうだ。
粘度が少なく、液体のようにさらっとした感じで、色は茶褐色。ちょっと酸味があるような気もするが、さほど癖がなく、美味しい。私は日本にお土産として持ち帰り、最近は毎朝、パンにつけて食べている。
石鹸
タイスでコーティングした小箱に入ったもので、ココナッツとラベンダーの香りの2種の石鹸。泡立ちがよくて、香りもいいので、気に入っている。これも日本のNPOが指導・支援しているそうで、ディリ市内に店があるし、ホテル・ティモールのお土産店でも売っていた。
ジャム(パイナップル、パパイヤ)
パイナップルジャムはパイナップルの酸味が残っていて、美味しい。パパイヤのジャムは、味の想像がつかなかったのだが、食べてみると、パパイヤの鼻に抜ける独特の風味が残っていて、これも美味しい。
絵葉書き
旅の思い出に、日本へ絵葉書きを出そうと決めていた。私の経験からすると、日本と東ティモール間で郵便のやりとりをするのに、片道で2ヶ月ほどかかった。最速で3週間とも聞いたが、その不便さが逆に面白く、ランチを食べたホテル・ディスカバー・インで絵葉書を買ったのだが…、ごく普通の絵葉書きが、1枚でなんと、1ドル50セント。かなり高価だと感じた。絵葉書の需要が少ないせいか、相場を知らないのか、この国では紙が貴重なのか、カラーコピーが大変なのか・・・と原因を考えつつ、郵便局へ。日本まで絵葉書き2枚で1ドル。
ちなみに、東ティモールに郵便配達は存在しない。郵便を出しても届くのは、この郵便局まで。郵便局に私書箱を開設し、地方に住む人は、ディリに来たときに私書箱を確認するのだそうだ。
7.帰路のできごと
12:55ディリ発のメルパチ航空でバリに戻り、およそ9時間のトランジットをバリ・デンパサール空港で、足裏マッサージをしようとか買い物を楽しもうと目論んでいたのだが…。
ディリ国際空港に着いて荷物を預け、出国手続きをしようとしたら、「出発は5時間後だけど、もう手続きするのか?」と聞かれた。職員が指さす方へ行くと、空港入り口に4時間遅れと掲示があった。
空港にはタイスの店が数軒あるのみだ。仕方なく、空港内のベンチに座り、時折、携帯電話で日本にショートメールを送ったりして時間を潰していた。
他の乗客が集まってきたが、飛行機が着陸した気配もないし、空港に動きがない。職員に聞くと、もう1時間遅れるとのこと。そんなものかと気長に待っていたのだが、他の乗客が職員に聞いてきて、19:50発だとうんざり顔で教えてくれた。軽食が配布され、空腹は解決。だが、さすがに暢気な私も、トランジットに間に合うかどうか、焦り始めた。おまけに暇つぶしにメールしまくっていたため、携帯電話の電源も減っている。東ティモールにはそもそも公衆電話がないのだ。ますます焦った。
結局、ディリを離陸したのが21:30。ぎりぎりでJALへの乗り継ぎに間に合った。
もっとも、悪いことばかりではなかった。ディリの空港で東ティモール人女性に話しかけられたのだが、彼女はJICAの研修で「海難救助・海上防災コース」に参加するために来日している東ティモール国家警察官。東京に来る機会があるそうなので、ぜひお会いしましょうとメールのやり取りをしている。
8.最後に
2010年8月、ほんの数日だが東ティモールに滞在した私は、もしかしたらほんの一面を見ただけなのかもしれないが、現在の東ティモールという国を体感することができた。まだ観光地化されていない雄大な景色を、充分に堪能することができた。
東ティモールで政治危機があったのは06年、ほんの数年前だ。それが信じられないぐらいに、今回の旅行ではのどかな平和な国の印象を受けた。それだけこの国は今、時々刻々と変化しているのだろうと感じる。
また今回の旅行を通じて、東ティモールに在留し、東ティモールのためにご尽力している日本人が、数多くいらっしゃることを知った。一方、日本で、東ティモールという国を知る人は少ないのではないかと思う。
最後に、私のつたない旅行記が、東ティモールという国に興味を持つ人がひとりでも増えるきっかけになればと思います。
山室(電機メーカー・情報システム開発担当)
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