私の見た東ティモール

日本の皆様へ

 

はじめに
 国連開発計画(UNDP)で15年余り働いている長女が2010年の3月にパキスタンから転勤して東ティモールに駐在しています。彼女を訪ねて9月に私達夫婦と次女の3人の家族旅行をして来ました。美しい海岸線となだらかな山稜に覆われたこの南の国と、その住民たちが30年以上にわたって蒙った悲惨な歴史を一人でも多くの日本の人々にお伝えしたいと思い、一筆したためることにしました。


 インドネシア諸島の東の外れにあるティモール島は、西側がインドネシア領で、東側の岩手県より少し狭い地域が独立国、東ティモールです。人口は約100万人。その62%は24歳以下で平均年齢が17歳。なぜ?その謎を解く鍵は、その悲しい歴史に隠されています。是非ご一読下さい。


 1510年代の初め、ポルトガルの船がマラッカ海峡から約3000キロの海を渡りティモール島へ辿り着く。ティモール島がいくつかの部族領地にわかれていた時代である。ポルトガルは東ティモールを占領し、植民地とした。ポルトガルはここを太平洋地域統括のための管理本部とするとともに、中国向けの白檀木材を切り出すなど、豊かな自然資源に手を広げた。

 

 その後を追うようにオランダが進出して行く一方、ポルトガルの力は次第に衰え、1641年にはマラッカがポルトガルからオランダの手に渡り、1826年までにはオランダが今日のインドネシアの中心地ジャワ島をほぼ全域支配するに至る。そして1916年、両国はティモール島の東と西を夫々の植民地として分割統治する契約を結んだ。

 

 その後第二次世界大戦中の1942-45年に日本が一時期占領したが終戦とともに再びポルトガル領が続く。一方で1945-49年にインドネシアがオランダから独立。そして1974年にポルトガル国内で軍による社会主義革命を機にアフリカのポルトガル植民地が相次いで独立する。1974年に東ティモールでもティモール人有識者が相次いで政党を結成して将来の東ティモール統治に向けての政治活動を展開、ポルトガルからの段階的独立を謳うUDT、即時独立を望むASDT、そして少数ながらインドネシア統合化の自治を目指すApodetiの3政党に分かれた。1975年に入り、インドネシア・スハルト政権の東ティモール統合の志が強まり、東ティモール政党間の分裂を巧みに利用また操りながら政治・軍事ともに領土内に進入して行く。ASDTは東ティモール独立革命戦線Fretilinと改名し、押寄せるインドネシアに抵抗すべく、ポルトガル人行政官が徐々に引上げて行く中、実質上ティモール行政に当たり、11月28日に独立宣言し、初代東ティモール政府を首都ディリに確立する。それに対抗して12月7日にインドネシア軍は大々的にディリを攻撃し、Fretilin政府と支持者は多数殺され、生き延びた者は内地山間部への逃亡を余儀なくされる。インドネシアは翌年7月に正式に東ティモールを併合する。

 

 この時期は米ソ冷戦時代に当り、米国を中心とする西側諸国はインドネシア海域を共産圏の手から守ることは最重要課題と考え、周辺地域で頻発していた反抗を武力でつぶそうとするインドネシアを一方的に支持、支援していた。国連がインドネシアの武力行使を防ごうとして動いても米国の力には及ばず、日本も資金・経済援助などで結果的にインドネシアを応援していたことになる。

 

 このような国際社会の黙認のもと、長いインドネシア圧制下と住民迫害は1999年まで四半世紀続くことになる。それに対してFretilinの独立闘争は東ティモールの山中からのゲリラ戦と海外亡命中のティモール人の抗議・外交活動を通じて忍耐強く持続する。インドネシア統治下で18万から25万人が殺害または飢餓・病気など圧制の間接要因により死亡したとされる(75年時の人口69万)。1989年に冷戦が終結し、90年代に入りインドネシア国内で民主化運動が活発化しさらにアジア経済危機で政府に対する不満が高まりついに98年にスハルトが辞任する。後継者のハビビ大統領は国内外で高まるインドネシアの東ティモール人権侵害批判を鑑み、東ティモール政策を見直す。そして1999年に国連の監視下で、東ティモール人が独立を選ぶか、それともインドネシア併合を望むかを問う、国民投票を行うことが決まった。しかしインドネシア軍は投票を有利に運ぶべく、併合派武装民兵を使って暴力テロを扇動し、独立派住民の脅迫を続ける。

 

 8月30日の国民投票には命の危険をおかしながら、98%の東ティモール人が投票に参加し、78%が独立を希望した。思惑の外れたインドネシア軍・警察擁護下の武装民兵は投票結果発表直後に国内至る所で殺戮と破壊を展開し、1400人の死者と30万の避難民を出し、国連投票管理ミッションも国外退去を余儀なくされる。事態収拾のため、豪州指揮下の国際平和維持軍が9月20日に派遣、追って10月25日に国連暫定統治機構が東ティモールに設立される。投票後の暴力で公共施設・住居などのインフラの75%が破壊された文字通り一からの国造りがこうして始まった。国連その他の支援組織によって敷かれた土台の上に2002年5月20日、東ティモールは国際法上の独立を果たし、政権は国連から選挙で選ばれた初代東ティモール政府に手渡される。

 

 建国は数々の困難を乗り越えながら進むが、過去の紛争の影は社会・政治構造に複雑に絡み合っている。2006年には軍と警察間の衝突がきっかけで暴動が広がり、15万人の国内避難民と家屋・建物が数多く焼討ちにあった。国連は新たに警察軍の派遣を決定、約1500人の国連警察隊が、今も尽力している。2008年に大統領・首相暗殺未遂事件が起きたが幸い暴動には進展せず、事態は収拾された。東ティモールはようやく新しい軌道に乗ったところだ。紛争や洪水で破壊されたままの道路の修復や新設は火急の政策であろう。東ティモールは、コーヒー、石油等、自然資源も豊富である。若者たちの学校教育も改善されつつある。観光地としても、美しい海岸や長い歴史を知る遺産など、素質は十分である。あとは、いかにして世界中からの関心を呼び集め、人材や資金の投入を促進するなどして、国民の生活の向上、安定をはかるかが、東ティモールの良き未来を実現するための鍵ではなかろうか。

 

おわりに
 この度東ティモールを訪れ、つらい過去を背負った東ティモールの人々が平和な生活を送り、幸せを目指す日々を積み重ねていくのを垣間見て感慨もひとしおでした。また、今この時期に娘を含めたたくさんの日本人がこの地で東ティモール人と一致協力しながらこの国の平和と発展のために働いているのもただの偶然ではないかもしれません。

 

 いま改めてこの国を思い起こすと、素晴らしい自然に恵まれた東ティモールは、東南アジア有数の観光スポットの一つに育つに違いないと思われます。ボートから目にした珊瑚礁の美しさ。海岸沿いのホテルやレストラン。昔のポルトガル軍の砲台跡の石壁に囲まれた料理店。等々・・・

 

 それに加えて、あの国の人々が長い年月、耐え抜いて来たつらい歴史を知ったからこそ、いまなお胸に残る感動を味わえたのではないでしょうか。かつての牢獄の建物に造られた歴史博物館。破壊された教会などの建造物。そして丘陵地帯の木々の間に並ぶ住民たちの家々。そのどれもが私の目には貴重な歴史遺産として写りました。一方、何より嬉しかったのは、学校に笑顔で通う大勢の生徒たちの姿を、度々見ることができたことでした。

 

 ようやく政治の安定を取り戻した東ティモールが、観光地として発展するには、道路の改修をはじめ、多くのお金と労力を必要としています。でも、恵まれた自然資源の一層の開発とともに、観光客の数が増えれば、住民たちの生活向上を促進させるにつながるはずです。

 

 日本から一人でも多くの観光客が東ティモールを訪れ、新たな観光地発見の喜びを味わうことができれば、それは東ティモールの人たちにとっても、幸せなことではないでしょうか。

 

 日本の皆様からのご声援をよろしくお願い申し上げる次第です。

 

2010年秋

田中

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