館員の見た東ティモール

 

東ティモールにおける政務的生活(その1)

 

【はじめに】

 

 東ティモールで3年半以上生活した人はやみつきになり、リピーターとなって戻ってくる。そんな話を聞いたことがあります。自分にはあてはまらないと思っていたので気にしていませんでしたが、本コラムを書き始めて、ふと手が止まりました。東ティモールに勤務して以来、今日でちょうど3年半が経ったことに気付いたからです。

 周りを見渡すと、いました、5年も6年もここに居る人が。しかし、いつしか東ティモールの魅力を共有している自分もそこにいるではありませんか。東ティモールはどうして人を虜にするのでしょうか。その謎を究明すべく、3年6ヶ月の在勤中に自分の目で見た東ティモールとその人々を紹介しましょう。

 

 

【政務の品格】

 

 その前に先ず自己紹介を致します。私の専門語学はインドネシア語です。当地では仕事上英語を使うことが多いのですが、ある日アジア人としての自分を自覚し、中国語、タイ語、韓国語に次々と挑戦し、今や当館で一番の中国語の使い手です。政務班に所属しています。時々、当地の在留邦人の方から政務担当というのはどんなお仕事ですか?と聞かれます。そんな時は当館の国造り協力班は日本の協力の証として橋を造ったり、港を整備したり、電力供給の支援をするなど成果物がはっきりしているものが多いのに比べて、政務の仕事は成果物が両国政府間の文書となるような仕事をしていると答えています。こう答えれば誰もそれ以上つっこもうとしません。因みに最近の関心事は関西人のぼけとつっこみ。当館の館員の中にも関西出身者が少なくありません。密かに聞き耳を立てて館内ツアーをしてみると、ぼけとつっこみが自然に耳に入ってくるのがたまらなく面白いです。

 

 

【2006年騒擾事件から危機へ】

 

  2005年7月、当地に赴任。「暑っ。」日中はいつも日本の夏のような気候です。おかげで記憶が定着しません。日本だったら季節の移り変わりで記憶が割と定着するのですが、ここだとそうはいきません。いろいろなことを一度に忘れてしまうのです。ポスト紛争国家として国造りの最中にあって、その成功例としての国際社会の期待が高まっていた時でした。夜になるとビーチ・ロード沿いに灯をかざした屋台が所狭しと並び、仕事を終えた人々が帰りがけに焼き魚、焼き鳥、焼きトウモロコシなどの総菜を買う平和な光景がそこにありました。そんなのどかな様子を眺めていて、翌2006年の4月に騒擾事件が発生し、激動の東ティモールのど真ん中に自分が置かれることになろうとは誰が想像できたでしょう。(続く) 

 

 (大橋)

 

 

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