2010年の元旦を迎えました。
今年の3月末で、JICA東ティモール大学工学部支援プロジェクトは終了を迎えます。このプロジェクトは東ティモールの独立後に東ティモール政府の要請により始められた日本政府による緊急無償援助によって行われた工学部施設のリハビリテーションをきっかけとして始められた東ティモール大学工学部の再建支援を発展させたもので、3年の準備期間の後に2006年4月より開始されました。
プロジェクトの開始直後に、国軍兵士の解雇に端を発した騒乱のため、中断を余儀なくされましたが、2006年12月には再開のための調査団が派遣され、治安の回復が確認され、2007年2月より準備のための専門家派遣が行われました。
その一人として、教育省高等教育局に派遣されましたが、この時期は、大統領選挙と国会議員選挙直前で、独立後の5年間、国政を担当したフレテリン党に対する批判が高まり、治安が再び不安定となり、国連食糧倉庫の襲撃、派遣先の教育省の焼き討ち(写真1)と騒乱が続き、3か月の派遣期間が2カ月に短縮されるハプニングを経験しました。
ただ帰国後に実施された選挙の結果は、政権与党のフレテリン党が野党連合に敗れ、政権交代が実現し、元大統領のシャナナ・グスマン氏を首相とした新政権が発足しました。
新政権の下で政情は落ち着き、治安の確保が確実となって、プロジェクトは2007年8月より再開されました。このとき、本プロジェクトを担当する専門家として参加することになり、これより、昨年の12月まで、派遣期間2ヶ月のペースで8回派遣されています。
再開の際に終了が1年延期され2010年3月末に終了するプロジェクトとして、本格的な活動に入りました。2年半が経過し、再開のための準備から、終了直前まで、本プロジェクトに関係する機会を得て、この国に高等工学教育を確立するための支援業務に携わり、種々の課題解決に直面することになりました。
昨年10月に最終調査団によるプロジェクト評価を受けて、初期の目標を達成して、プロジェクトは終了しますが、その成果は、まだまだ満足できるものではなく、世界に通用する工学部レベルに達するには道半ばであることを実感しています。このプロジェクトを推進するにあたって経験した課題の一部をご紹介したいと思います。
東ティモール大学工学部は、インドネシアの統治時代には2年制のポリテクニックとして運営されていましたが、独立後は、新しく設立された国立の東ティモール大学に組み入れられ、3年制の東ティモール大学工学部として再開されました。
工学部のあるヘラキャンパス地区の建物は独立時の紛争で、徹底的に破壊され、日本の緊急無償援助で修復された本部ビル(写真2)と電気・機械工学科のワークショップ(実験棟)(写真3)、土木工学科ワークショップ(写真4)、食堂棟(カンティーン)(写真5,6)の4棟を除いて、その他の建物および施設は、取り壊されておらず、廃墟のまま残っています。廃墟を見ると、図書館棟、講義棟(写真7)、講堂、学生寮、教官宿舎、さらに、プール、テニスコート、バスケットボールコート、サッカー場(写真8)、野球場があり、キャンパス全体の広さは日本の大学一校分は十分ある広さで、破壊前は立派なポリテクニクであったことが偲ばれます。
我々の東ティモール大学工学部支援プロジェクトは、英語のプロジェクト名はCapacity Development of Teaching Staff in the Faculty of Engineering (CADETES) Projectとなっていますが、教官の教育能力向上を支援するプロジェクトで、廃墟を取り壊し、新しい建物を建設することを支援するプロジェクトではありません。プロジェクト開始前の準備期間にこちらに来られて、工学部の各学科を支援した日本の3大学(岐阜大学、埼玉大学、長岡技術科学大学)の先生方より、工学部で働く教官方の基礎学力および教育力の不足が指摘されました。長い紛争のため、十分な基礎教育を受けられなかったことと、基礎学力を伸ばすカリキュラムが取られていないこと、修士号を持つ教官が少ないことなどの原因が考えられます。
本プロジェクトは、教官の基礎学力を高め、この国に役立つ技術者を育成するのに必要な教育力を持った教官を育成することを目標に開始されたプロジェクトです。そのため、教育用、実験用の機材は提供するが、施設建設、施設のリハビリは大学側の努力で実施する立場でした。とは言っても大学側の施設改善の予算処置は極めてのんびりとしていて、2009年度にやっと電気・情報学科用のワークショップと、学生寮の再建(リハビリテーション)が始まったばかりで、工学部側の施設再建のペースの遅さには歯がゆいものがあります。教官の何人かはすでに廃墟の教官宿舎に居住しており、学生も廃墟の学生寮に住んでいる現状には、プロジェクトとして見逃すことはできず、修理のための資材提供は行ってきました。
教育用機材の提供では、2007年度、2008年度には機械工学科、土木工学科用の教育・実験機材が届き、2009年度には電気・電子工学科用の機材(写真7)が届き、さらに日本の3大学の支援で、それら機材の使用方法、教育方法の短期研修が行われ、3学科のワークショップの充実が計られました。
日本の3大学の役割は、岐阜大学の電気・電子工学科が電気電子工学科を支援し、埼玉大学の土木工学科は土木工学科を支援し、長岡技術科学大学の機械工学科は機械工学科を支援する体制でプロジェクト運営が行われています。この体制は、プロジェクトが開始される以前の準備期間からの体制で、この支援体制から、日本で修士号を取得した教官が7名(電気電子工学科2名、機械工学科3名、土木工学科2名)出ており、現在も2名の教官(電気電子工学科)が日本に留学中で、2010年度にも1名(機械工学科)の留学が予定されています。さらに、提供した教育・実験機材の研修に短期研修生として1ヶ月~2ヶ月の研修を3大学にお願いしています。 3大学からは春休み(3月)、夏休み(8月、9月)に先生方の短期派遣(2週間~3週間)を各学科2名のペースでお願いしています。このペースでの支援がプロジェクト期間中、続けられてきました。
我々専門家は、3大学の先生方による短期研修をバックアップすることに加えて、基礎学力(英語、数学、物理、基礎工学)の向上を担当して、教官を対象にそれぞれの授業を実施しました(写真8)。また、専門家の仕事として、工学部の運営方法の改善、カリキュラム、シラバスの整備に対する助言などを実施し、授業の質を高めるための学生による授業評価の導入などが実施されました。
このプロジェクトの目標として、社会に出て役に立つ技術者を育成する3年制の工学部の完成を目指すことが最初に掲げられて、座学中心の教育から実践的な教育を指向するカリキュラムの見直しが計られました。
この目標でプロジェクトはスタートしましたが、国の方針として高等教育機関の整理統合が計られ、認可基準が設けられ、2008年にその審査が実施されて、16機関あった高等教育機関(主に私立大学)が4機関に整理されました。その際に、東ティモール大学は、国の高等教育機関として、指標となる高等教育機関となることが指定され、工学部も2012年には4年制の工学部を目指すことが義務付けられました。認可基準には、教官の資格が指定されており、4年制学部の教官は修士の資格が必要とされており、大学院の教官は博士の資格が必要となります。このため、国として、大幅な留学予算の増加を認め、2008年度に留学計画が実行されました。
プロジェクトに対するこの影響は大きく、2008年末には、工学部では21名の教官が留学する結果となり、2009年度では新たに5名の教官が留学することになっております。かなり思い切った施策がとられましたが、日本への留学時に行われるような厳密な留学審査が行われた様子はなく、年功序列で選ばれており、はたして、何人が修士の学位を得て、帰国できるか、心もとない留学となっています。プロジェクトで学力強化の対象としていた年配の教官が、留学により居なくなったため、現在では研修の対象が若手教官に移り、若手教官が中心となって研修を受けるようになって、学力の向上も若手を対象に取り組んでおり、かえって、指導効果が上がるという皮肉な結果となってます。
日本の3大学の先生方による、春、夏2回の短期研修および,我々専門家の授業は英語で行われていますが、英語が出来る教官は各学科ともに半数以下で、研修に際しては英語からインドネシア語への通訳が必要でした。学部での授業はインドネシア語の教科書を用いてインドネシア語で実施されていて、現時点では、工学部の言語はインドネシア語ですが、インドネシア語の教育は小、中等教育では行われていないため、早晩、インドネシア語の教育を受けていない学生が入学することになります。
2012年までに、ポルトガル語による授業とする政府通達が出て、学部における言語の問題が大きな問題となると思いますが、教官方は言語に関して、強い反対意見を出していません。公用語はポルトガル語とテトゥン語(現地語)、仕事用の言語として、英語とインドネシア語となっていますので、インドネシア語が消えることはないと思っているのか、ポルトガル語の浸透に合わせて、勉強すればよいと思っているのか、はっきりしません。
アドヴァイザーとして、常日頃、工学教育の言語は英語にすべきと言っていますが、英語の不得手の教官も多く、教官の総意とするまでには至っておりません。我々が英語教育を支援するのはおかしな話ですが、英語圏のドナーと協力することは可能だと思います。しっかりした英語授業を導入して、その上で、英語授業に移行することが、この国の工学教育に必要であると思っています。
ついでながら、この2年半の間に、教官方より日本語教育の依頼が何度かありました。以前に何度が日本語教育を受けた経験があったようで、片言の日本語を話す教官もいます。日本で修士を取った教官達とのコミュニケーションも英語ですので、日本語をマスターするのは難しいのかも知れませんが、この国の人には言語に対する障壁は低いようにみうけられますので、しっかりした日本語教育を導入することは、日本への親近感を持った幹部を育成する上で、重要なことではないかと感じています。
東ティモールの治安は新政権誕生後、改善していましたが、2008年2月に武装集団による大統領と首相襲撃事件が発生し、起こった直後は、夜の外出禁止令が敷かれ、騒乱の発生が心配されました。ところが武装集団が一掃されたことから、その後の治安は急激に改善されました。さらに、政府の施策により、2009年初めには、ディリ市内の公園を占拠していた2006年の騒乱時の避難民によるテント村がすべて撤去され、さらに、毎週金曜日に実施されるようになった市民と公務員による清掃作業でディリ市内は見違えるようにきれいになりました。夜も安心して歩けるようになっています。ヘラキャンパスも清掃が行き届くようになりました。このような治安の目覚ましい回復から、 警察権も国連警察から順次現地警察へ移管されています。
プロジェクトも政情の安定化の下に順調に進めることができました。
しかしながら、新政権の下でも目立った産業が成立しておらず、卒業生の多くが職につくことが出来ない状況が続いています。雇用を促すはずの多くの公共事業が、インドネシア人と中国人の労働者に頼って行われており、ティモール人の仕事は単純労働に限られている現状があります。職のない人々の不満は蓄積されているように思います。このような状況が長く続くと次回の2012年の国政選挙時、にまた騒乱が発生する危うさをこの国は持っています。
このような状況を打破する活動が工学部の教官に必要と思います。まず卒業生の職の確保が必要で、教官すべてがこれに当たることが必要でしょう。
プロジェクトは3月末で終了しますが、次期ステップの支援が申請されています。検討されています。
工学部の教官の多くがこの国の置かれた状況を認識しているようですので、雇用を生み出すという新しい動きを引き起こすことが、新しいステップには必要だと思います。このような活動を取り入れることにより、工学部が、ひいては社会が教官達の手によって改善されてゆくことを期待しています。
小川(JICA専門家)
写真1.
焼き討ちにあった教育省の中庭 (2007年3月 )
写真2.
ヘラキャンパスの工学部本部建物
写真3.
土木工学科ワークショップ
写真4.
電気電子工学科ワークショップ
写真5.
カンティーン(食堂棟)
写真6.
カンティーンでの昼食
写真7.
カンティーン近くの講義棟廃屋
写真8.
サッカー場でのソフトボール
写真9.
2007年8月の機材供与式
写真10.
2008年度機材の搬入
写真11.
2009年度機材の搬入
写真12.
物理の授業
写真13.
Computer Programmingの授業
写真14.
岐阜大吉田先生を迎えた電気電子教官方
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