いよいよ水霊との対話が始まる。半裸の巫(かんなぎ)マビータはトランス状態に入った。右手に儀式用の小刀を、左手にロウソクを握り、「タッ、タッ、タッ」とリズミカルに床を踏み鳴らし続けている。額と首から汗が飛び散る。そこに日頃の実直な農民の姿はなく、責任と誇りに満ちた水霊との厳かな交信者となっている。座して見守るリアナイン(長老)、マリノス(伝統水番)に混じり、神妙にかしこまる山田専門家の姿も見える。
儀式が行われている薄暗い小部屋には稲穂が供えられた神棚があり、天井からは赤い布が垂れている。この場に水霊が降り神託が告げられることとなっている。水霊と“交信”し始めたのであろう、マビータは陶酔しつつ水霊からの語り掛けに相槌を打ち始めた。緊張に山田専門家も膝の上で握りしめた手の中は汗でびっしょりぬれている。土地の人間にも公にされない儀式に外国人として初めて同席するのである。全身の筋肉が硬直したとしても不思議はなかろう。
3ヶ月前、プロジェクト(灌漑稲作プロジェクト:詳細は下記)は難題に直面していた。第2二次水路「ウスンビタット」で椰子の葉を使った違法な嵩上げ取水が発見されたのである。マリノスがヤシの葉を除去していたところ、通りかかった同水路支線長ルイスが「やめろ!」と大声で阻止しようとした。居合わせた水利組合副会長も怒鳴り返し、大口論となった。地元の農民は作業用にカタナと呼ぶマチェテ(長なた)を携帯しているが、二人ともその時マチェテに手がかかった。口論が過熱し、遂に支線長は奇声を上げてマチェテを振り上げた。プロジェクトスタッフが警察に通報しようと身構えたが、結局口論は徐々に下火になっていき、不信感を抱えたまま支線長は姿を消した。第2・3二次水路は修復工事直後から標高が低く、違法な嵩上げを行わざるを得ない状態であったが、プロジェクトはその上流部により高い二次水路、プリメーロを設置し、その水路が稼働し始めたことで問題は完全に解決したと安心していたのである。
後日、水利組合副会長はヤシ酒とヤギを携え、件の二次水路長と「和解の儀」を持った。しかし、プリメーロの使用についてはラクロ川上流にあるレインボール集落に住む長老(リアナイン)の許可が必要であることがその席で明らかにされた。更に後日、長老を訪問して水霊信仰の話を聞き、水霊との交信者、巫による水霊のお告げが必要であることが分かった。紆余曲折を経、遂にその水霊との交信を巫であるマビータが引き受け、その場が設けられたのである。
場の緊張がクライマックスに達すると共に、マビータは赤い布に “書かれた”神託を声高に読上げ始めた。小半時を越える長いお告げであった。山田専門家は赤い布にいかなる文字も見出せなかったが。「背く者には禍が降り懸る」と告げられる神託を地域住民が恐れ従うのは当然だ。その中で、プリメーロの使用が許可されたのである。長い道のりであったが、この一連の過程と伝統的儀式は一体何を意味するのであろうか。
土地の住民は精霊の存在を信じて疑わない。アニミズム(原始宗教)的信仰はカトリック渡来以前からのマナツト土着の習俗であり、未だに生活に大きな影響力を及ぼしている。近代的灌漑施設が完成しても、水霊信仰の方を住民は暗黙のうちに優先している。確かに近代的施設やシステムでさえ、時には自然の猛威の前に無力になる。自然の力を過小評価してはならず、近代に過大な期待をするのも間違っている。常に畏怖の念を持って自然には対峙すべきであろう。振り返ってみれば、我が国でも超高層ビル建設の前に地鎮祭を行うではないか。大自然への恐れ、自然の営みに対する従順な気持ち、自然の中でのみ生を営めると言う宇宙の真理、これらを忘れないための古来からの知恵、行動様式に学ぶ点は多い。
プロジェクトは人々に水を約束し、水田稲作を振興している。確かに単位収量は上がり、人々の生活も徐々に向上している。しかし、近代的灌漑施設、効率的維持管理法、合理的栽培法、等でのみ自然と共生(Symbiosis)していけるものでないのは明らかだ。自然に対する敬虔な信仰心を決して無視してはいけない。新年に当たり、今年のプロジェクト標語を共生(Symbiosis)とした所以である。水に対しても、人間が制御できると傲慢にならず、謙虚に自然との共生を目指していきたいものである。水の恩恵はその時初めて約束されるであろう。
灌漑稲作プロジェクト:2003年に我が国緊急無償資金協力によって修復されたラクロ灌漑計画を技術指導するため、2005年5月に発足し、2010年3月に終了するJICA技術協力プロジェクトである。同計画は首都ディリの東65kmにあるマナトゥトに隣接し、ラクロ川から取水する。1950年代ポルトガル時代に敷設され、インドネシア時代に拡張されたが、96年の大洪水で施設は破壊され、放棄されていたのである。JICAからは二人の長期専門家に加え、短期専門家も専門分野から支援し、ラクロ灌漑計画地区500ヘクタール、790家族を対象に、稲作収量の向上、更に上位に収入増を目標として活動を続けてきた。稲作増収、収入増が水利費支払いを容易にし、灌漑施設を維持管理する水利組合(Water User’s Association: WUA)の経済自立と、組織的自律を達成させるのが究極の目的である。残念ながら水利組合の経済自立、組織自律は道半ばで、現在フェーズIIに期待が寄せられている。
二木(JICA専門家)
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