東ティモール、見たまま、聞いたまま、感じたままに
2010年11月27日、バリ島を飛び立ったメルパチ航空機は東ティモール・ディリ空港に着陸態勢に入っていた。
「着地」、次の瞬間、「急ブレーキか逆噴射か」思わず私達の足も車の急ブレーキを踏む動作をしてしまった。狭い空港も操縦士の技か、予定の場所に止まった模様。
タラップを降りると真っ青な空。そして「暑い」。
翌28日には第35回独立宣言の記念式典に参列。思い出に残る1頁だ。
2002年にはインドネシアから独立を回復し、名実ともに東ティモールになったと聞いた。
その間大統領や首相襲撃事件や弾圧が繰り返される中で今日を迎えた。現在、治安は安定しており、何も心配せずに過ごせた。
式典の中で、ラモス・ホルタ大統領の1時間にも及ぶ挨拶。ジープに乗っての観閲式。観閲の方法・やり方は、私たちの消防団とほぼ同じに思えた。観閲を終えて貴賓席にお戻りになる大統領の勇姿を間近で見ることができた。
式典の中で、国歌を斉唱し、国旗を掲揚。おごそかに。思わず「敬礼」をしたくなる思いであった。この任にあたる若者達は、今何を考え、これからの国づくりにどんな思いをもっているのだろうか。
いつ迄も、いつ迄も、平和で安心・安全な東ティモールの国を望まずにはいられない。
午後には、ディリ市内を視察。サンタクルス墓地訪問。1991年、インドネシア軍に無差別発砲され多くの死傷者が出た現場だ。数々の悲しい歴史を繰り返しながら今日があると思えば胸がつまる。
タイス製品を売る店の前で素足、上半身裸の子供に出逢った。あまりにも可愛かったので、「写真いい?」と声を掛けたら、店の奥に入ってしまった。この店の子供だろうか!びっくりしたのだろう。言葉も通じるはずもない。しばらくしたら出て来たので手招きをして記念の1枚をカメラにおさめた。
伝統的な綿の手織物、いわゆるタイス市場がせまいながら軒をつらねている。家内工業といっても、あまりに小さな子供がタイスを織っている。小学生位か!タイスの生地で出来た小物入れと思える袋に刺繍を入れる手作業をしている子供もいた。少しでも家計の足しになればと考えているのだろう。終戦直後の、日本の国民学校から小学校の頃が偲ばれる。
午後オイスカ(OISCA)東ティモール地域開発研修センターで農業の研修に取り組んでいる様子を視察。初級研修コースは6ヶ月間、更に希望者(研修センターの要請で上級に進む者も)は上級研修コース6ヶ月間、研修生20名と説明された。耕運機や草刈機の使い方を教えているのだろうか農機具もあちこちに見られる。
オイスカ研修センターの視察を終え、「この辺は毒ヘビが出る」と言われ急いで道路に出た。そこで目にしたのは若者か!まだ子供か!何やらガヤガヤ‥カメラを向けると「写真はOK」言葉は通じないが仕草でわかった。応じてくれた。
帰路、道路の端や海岸に迄、若者も子供達も年の頃はわからないがどんどん集まって来始めた。歩いている。走っている人もいる。「お祭りでもあるのかな」車窓からながめていた。しばらくして「ピカ、ゴロゴロ」、ものすごい「スコール」日本で言う「夕立」、これはすごい。日本とは比較にならない。バケツをひっくり返した様。道路や低い部分のくぼ地も水浸しである。私達からすれば「えらい事になって来たぞ、何とか先に手を打たねば」と思うのが普通だと見ていると、それどころではない。素足、上半身裸になって若者や子供達が「大はしゃぎ」。雨を待っていたかの様だ。中には赤濁りの川や海で泳いでる人さえいて驚いた。又、濁った川の中でたき木を拾い集めている子供達も目につく。大丈夫か!家に持ち帰って薪にするのだろう。聞いてみると東ティモールには雨期と乾期があり、乾期には野も山も水不足で植物は枯死してしまうほどとの事。雨を待ちわびていたのだろう。それにしてもスコールの後は流れ着いた「ゴミの山」があちこちに出来て二度ビックリ。
翌29日には東ティモールの飛び地であるオエクシ県を担当するテメ長官にお逢い出来た。「勘太郎語学センター」を開校したばかりであった。その名前の由来は、長官自身の今は亡き父親の名前「カエタノ」が発音的に「勘太郎」に似ており、昔、日本人から「勘太郎」と呼ばれ、本人も気に入っていたとのことでこの名前をつけたとのこと。北原大使から予備知識として説明されていたので理解はしていたが、河野書記官の通訳を通しての言葉も真実味が感じられた。「日本語を教える先生を是非とも伊那市から派遣願いたい」と要請されるなど教育にかける強い思いが伝わって来た。「オエクシ県へ来て下さい。一週間位の日程をとって。」と言われた。
訪問団一行はテメ長官を中心に記念写真の1枚におさまった。つづいて「勘太郎語学センター」の名にちなんだ、あらかじめ用意をしていった伊那の古い歌「勘太郎月夜唄」を歌って当時を偲んだ。テメ長官もニコニコされ、その場面を写真におさめていた。機会があればオエクシに行きたいという思いが大きくなった。
同日、ラモス・ホルタ大統領を表敬訪問した。白鳥伊那市長からの親書を手渡した。又、昨年3月に来日された折、東京にて高遠中学校の子供達と久しく懇談されたお礼と更には、昨年7月には東ティモール高校生が来日し、高遠中学校を訪問、生徒たちと交流したことなどについてもお礼を申し上げた。
大統領からは、教育の充実、指導者の育成、若者の働く場所の確保などなど、国創りにかける熱い思いが語られた。又、記念写真の撮影にも気さくに応じてくださり、お土産にタイスの織物と特産のティモール・コーヒーをいただいた。コーヒーの説明の中で大統領は「日本は子供が少ないと聞くので、この東ティモールコーヒーは強精力がある。これを飲んで励んで下さい」と言われたが、「今からでは間に合わん」‥ほほ笑ましいひとときであった。
-終わりに-
かなり遅れている国東ティモール。発展途上国という言い方がいいのかもしれない。11月29日夕、予定されていた訪問、視察日程を終え帰路につく。ディリ発のメルパチ航空機は予定時間を4時間位の遅れ。名残のつきない私達の気持ちを察してか!!
大変お世話になった皆さんに見送られて空の旅人となった。すばらしい訪問であり、視察であった。思い付くままにのべてきたが、それにつけても経済活動の基盤であるインフラ整備の必要性を痛感すると同時に、リーダーの育成、教育の充実など課題多きを感じた次第であります。
(野々田)
2010年11月26日、日本を出発し、その日はバリ島に一泊し、次の日東ティモールに行きました。
一日に一往復しかしない、小さな、と言っても120人位乗れる飛行機で東ティモールの首都ディリに到着致しました。訪問団総勢12名、タラップを降り、北原大使夫妻と握手をする瞬間、出た言葉は「ついに来てしまいました!」でした。ディリに着いたと言う感動と感激を一度に味わう事の出来た一瞬でした。
大使とは小さな頃から家が近く、今回の訪問もそんな縁があって実現しました。妻も12名の仲間の一員として参加し、大変感銘していました。
28日は、今回の一番の目的でもある、東ティモール独立宣言の記念式典への参加でした。東ティモール政府の招待状を頂き、大統領横の各国の来賓と一緒の席で式典をくまなく見ることが出来ました。大統領の観閲、兵士の行進が始まると、それまで遠くで見学していた多くの市民が近くまで来て、ものすごい観衆となり、本当に此の記念日を祝福していると感じました。
式典が終わり、その後は市内を見学、ものすごいスコールも経験することが出来、充実した一日でした。
29日には大統領を訪問し、大統領のお話を河野書記官の通訳でお聞きし、帰りには大統領より一人一人と握手をし、又、特産のティモール・コーヒーをお土産に頂いて帰りました。素晴らしい経験をさせて頂きました。
東ティモールのもう一面を、感じたままに綴ります。
ものすごいスコールでアット言う間に一面水浸し。半端ではない。道路には泥水とペットボトルが流れている中、子どもたちは裸で、その中で遊んでいるのです。洪水となって流れる河で、裸で小さな子供が流木を拾っています。日本と比較するのは大変失礼だと思いますが、考えられません。学校にも行けない子供がたくさんいるとの事、トイレも普及していないとも聞きました。国民の平均年齢も18歳くらいとの事、確かにこれから発展していく国です。道路の排水、ごみを捨てない、トイレを作る、まず衛生面を早く改善したら人々の大敵であるマラリアを媒介する蚊も少なくなると思いました。又、砂防も必要です。スコールの来るたび大洪水となり、家屋の床下浸水は日常茶飯事との事。今、日本の援助で、川の上流ではディリ市民の皆さんの命を守るための飲料水を確保する取水場の工事が行われているとの事ですが、是非地元の人達を多く雇用して、幾らかでも収入の足しに成ればいいですね。もっともっと日本からの援助をして頂きたいですね。機会があったら是非また行きたいです。
オイスカの伊藤さんの様に自分がもっと若ければそちらに行って何か手助けしたいですね。南方の東ティモールは、冬が無い乾期と雨期だけの国です。日本では経験できない世界ですので、まず通年生活してみないと何をして良いのかわかりません。日本から行っている皆さんの苦労が良く分かる様な気が致します。
東ティモールの発展を心より祈り、見守っていきたいです。
(北原)
知人等に「東ティモールへ行く」というと「大丈夫かい?」と案じてくれる人がほとんどでした。
平成22年11月26日出発、バリ島経由にて無事東ティモール首都ディリに到着致しました。(11月30日帰国)
ノーベル平和賞を受賞した、ラモス・ホルタ大統領と面談し、白鳥伊那市長からの親書を手渡すと共に、同国オエクシ県「勘太郎語学センター」を設立した、テメ長官にもお会いし、今回訪問の目的を達成することが出来ました。
訪れて見て感じたことの一端を述べたいと思います。
警察官や兵士が街角の至るところに立ち、警戒に当たって物々しい雰囲気と思っていましたが、治安面でも何ら問題なく、我が国と同様、心配なく安心して訪問が出来ました。
独立宣言の記念式典に出席しました。我々も消防団の経験から、この様な式典に類似する儀式には何度となく経験致しましたが、同様に整然と粛々と行われたことには感動致しました。長時間の大統領の演説にも民衆は耳を傾け、時にはそれに応えて歓声をあげていました。国民はラモス・ホルタ大統領に絶大な信頼をしているのかなと思いました。又、国旗掲揚時には直立不動の姿勢で国旗を見つめていたのが印象的でした。
言葉の問題には、驚きました。ホテルでボーイさんが、インドネシア統治下で言葉に制約があり、苦しかったとの話をしていました。我々日本では、同一言葉であり、言葉の問題など考えた事もなかったのに、年代で言葉の違いがあり、学校教育面でも苦心しているとのこと、大変だと思いました。
若い者たちが道路端に何もしないで大勢居る姿が目に付きました。何か企業等誘致し、働き場所を提供出来ないかと思いました。
日本の農業指導研修のオイスカ地域開発研究センターは大変良いと思いました。研修を修了した皆さんが空き地を農地にして、野菜等を作り、自給自足出来ればと思いました。 スコールには驚きました。豪雨により、中小河川が氾濫し、道路が冠水し、床下浸水もあり、日常生活に支障があると思います。堰堤等治水工事や排水整備が急がれます。
危機管理にも問題があると思いました。海岸にワニが出没する事があるというのに平気で海岸で遊んでいる事、又、スコールで河川が増水しているのに、川遊びをしていたり、焚き木にする流木を拾う為、川に入っている事等、大変危険だと思いました。
トイレやゴミ処理等環境整備も遅れていると思いました。反面、自然の風景がすばらしく、サンゴ礁等きれいな海岸があり、自然を守りながら観光面で発展出来ないかと思いました。
発展途上国にありがちな物売りが必要以上につきまとい、いやな感じがいたしますが、この国はどこへ行ってもそれがないことでした。又、売り子も実直でした。もう少し商売気が必要かな・・・民族性かな・・・ これがお国柄かなと思いました。
(矢澤)
見るもの、聞くこと知らないことばかりで、あっという間の三日間でした。独立記念式典への参列は一番印象に残っています。広場に入れない一般の人たちが大統領の演説に聴き入り、国旗を見上げていた光景は、独立に対する熱い思いがあるのだと痛感いたしました。
この平和が続くよう、祈らずにはいられませんでした。
オイスカの農業研修センターへ案内して頂いた道々、大勢の子供達が遊んでいました。今の日本では見ることのない風景です。この子供達が大人になった時、国の大きな力になるのではないかと思いました。
(矢澤)
国を独立し、それぞれの経緯があって大変なご苦労をされて、現在国連の力をいただきながら国民の力での独立貫徹に向けて努力されている状況が独立宣言の記念式典を観させていただき、その気運をうかがうことができました。そして、お話では2012年には国連が撤収するとのこと、今後心配な面もありますが平穏に進展ができることを祈念する次第であります。
国民の生活については、気持ちがおおらかな感じが致しました。失礼な言葉なりますがその日暮らしのような状況となっているように感じた次第です。この様な生活環境の中で、意欲をもって働き、節度ある生活をしていくためには、意識改革が伴うと思います。指導者による教育、指導者による周知徹底を図っていくには、相当な年月を費やさなければなりません。そう思うと、国のリーダーのご苦労が伺えました。
ソフト面に対し、文藝春秋の「教科書が教えない昭和史」と言う座談話中に、以前日本軍が進駐した頃の様子を、文芸評論家福田氏の説「以前、自衛隊がPKOとして東ティモールに派遣され、内乱の後の復興に取り組んでいるのを取材したことがあったのですが、東ティモールには太平洋戦争時に日本軍が進駐しています。海上補給が途絶えてしまったので、軍人達が水田を作るんですね。そのとき、現地の人たちに教えた稲作が今でも続いている。日本とそうした歴史的なつながりのある国なんだ、ということを現地の指揮官が語りかけていました」と言う記事を見て、日本と歴史的に深い国ということを感じつつ、さらに日本国の支援の大切さを感じ、どのように農業面を活かすかが課題で、例としてご案内いただいたOISCAの実践農業学校的研修センターがその一例かと理解しました。気候関係をクリアされて、農耕を活かしての生産性を高める工夫が求まれます。
ハード面として、今後観光地化していくには、道路整備がまず優先されなければならないと思います。観光地に相応しい環境整備が大きな課題であり、計画的対応が必要とされてまいります。そして、天然ガスなどの天然資源については豊富とお聞きし、日本国として大きな期待が持てる国と理解した次第です。私たちとして取り組めることとして、まず観光面で美味しいティモール・コーヒー、タイスなど手芸等の産物を活かして東ティモールをアピールし、国民の理解を深め行くことがまず必要であると感じた次第です。
(春日)
28日には第35回東ティモール独立宣言の記念式典に参列することが出来ました。部隊観閲・国旗掲揚・大統領訓示・部隊行進・生徒によるドラムマーチ行進と2時間に及ぶ式典から東ティモールが混乱期を脱し、国としての体制造りの核が出来つつあると感じました。
大統領の演説は40分にも及びました。演説の内容は理解できませんでしたが響きのある声でリズムを感じながら途切れることなく流れる演説は、独立から今日に至るまでの出来事とともに国民が一丸となって国を造って行こうと呼びかけたのでしょう、会場外に集まった大勢の市民が拡声器から流れる大統領の呼びかけにその都度大きな声で賛同していたのが国造りへの希望を感じとても良い印象でした。
翌日は、大統領を表敬訪問しました。大統領は1996年にノーベル平和賞を受賞されております。15分ほどの訪問時間でしたが冗談も上手で直ぐにリラックスでき、笑いの多い素晴らしいひとときでした。
名所巡りの車窓や買い物時、国民の暮らしぶりを見ることが出来ます。裸足で歩いている人もいますし、スコールで増水した川に入って流れてくる焚き木を拾うほど今はまだ貧しい国ですが、人々は柔和でとても親しみのある良い印象です。農業以外の産業は少なく、収入は少ないが、有るものを分け合って明るく生活していると感じました。多出産の国で、子供の数が6~7人とのこと。祖母が孫を抱いているのかと思ったら授乳していたのには驚きました。平均年齢が20歳に満たない国で、今の人口が2倍3倍になるのは瞬く間だと思い、人口対策は重要な課題なのではと感じました。国の発展に先立つ港湾・道路・生活環境等の整備が必要で、多くの国々が無償援助をしているようですが、思惑の無い援助は無い気がします。受けられる援助は受け、国造りを急ぐのはわかりますが、将来、援助国の思惑の狭間で東ティモールが苦しみ、援助国が争うことがないことをと祈っています。
また、テメ・オエクシ県担当長官の前で「勘太郎節」を披露できたことも、良い思い出です。
(藤沢)
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