私の見た東ティモール

 

再び訪れた東ティモール

はじめに

 

 2007年1月からちょうど1年間東ティモールに勤務した。公用パスポート上の官職はJICA専門家、職場は大統領府で肩書きは財政・金融顧問、グスマン大統領(5月まで)と、その年初めての国政選挙で選ばれたラモス=ホルタ大統領の補佐官としての仕事であった。

 

 当初、2006年6月の赴任を目途に研修他の準備を進めていたが、同年4月~6月のいわゆる「東ティモール危機」が勃発、旧軍人と警察部隊などの武力衝突、放火、略奪などで治安が極度に悪化、約15万人が家を追われる。5月にオーストラリア軍が「危機」を収めるために軍事活動を開始。6月マリ・アルカティリ首相が退陣、ラモス=ホルタ外務大臣が首相になった。
 以上の次第で、一旦中止となった派遣が2006年末混乱の沈静化と共に、あらためて2007年初の派遣となったもの。

 

 東ティモールは、1万7千余りのアーチ型の島嶼群からなるインドネシアの南東に位置するティモール島の東半分である。さらに南にはオーストラリア、南太平洋の小島群が続く。国土面積は約1万5千平方キロメートルと、岩手県と同程度、2010年の推定人口は約120万人である。石油収入の急激な伸びにより、2010年の一人当たりの国民総所得(GNI)は約2100ドルだが、平均的な家計に費やせる一人当たりの国内総生産(GDP)は600ドルと最貧国の水準にある。

 

 2007年1月訪問時の印象は2006年の混乱の後遺症いまだ癒えず、教会の庭や、由緒あるティモールホテル近くの公園や、国会議事堂および政府庁舎から続く海岸には、多数の国内難民のテントが立ち並んでいた。更に同年4月~5月の大統領選及び首相選挙が実施された。従来与党フレテリンとグスマン首相候補が率いるCNRT(東ティモール再建国民会議)党を中心とする連立野党との意見の対立、及び永年に亘る貧困、人心の荒廃により、2008年1月同国を離れるまで状況の改善は見られなかった。

 

再び訪れて

 

 今回の訪問(2010年3月末~4月末、5月末~6月末)の目的は、同国がそれまで無償援助により社会開発、経済開発を行ってきたものを、有償援助即ち対外借り入れをも行い、国家優先課題に対処するため、その体制創りのアドバイザーとしてであった。

 

 再び訪れたディリの街には、最早国内難民のテント村は一切見られず、ワンストップ1ドルの黄色いタクシーの数も多くなり、自家用車も、小型オートバイも大幅に増加していた。在東ティモール日本大使館沢内領事のお話によると、大使館へ通勤時に、ラッシュアワー、通勤車の渋滞時があるほど、だとのこと。実際に財務省より目抜き通り、Audian通りの定宿「さくらタワー」(徒歩15分)に帰宅する際にタクシーに乗っても同程度の時間がかかるので、徒歩を選択することもあるほどであった。又、商店街のColmera通りの商店にも電気製品や、中国、インドネシア、マレーシア製などの雑貨が豊富に並んでいた。

 

 グスマン政権が発足して直ちに手がけた対策が難民キャンプ1世帯に3千ドルの復興資金援助を行い、焼け出された家を再建して元の家に戻りなさい、というものであった。これが十分な成果を挙げ、国民の消費が増え、経済の好循環がはじまったものと考えられる。又東ティモールが米ドル経済圏であることに好感して、バリ島(インドネシア)からの小規模民間投資家が、ホテル、レストラン、タクシーなどに、投資していることも良好な傾向である。

 

 現地日刊紙「Timor Post」などにも、前回駐在時のように若者が些細なことで喧嘩をした、警察官といさかいを起こした、というような人心荒廃による小事件の報道は殆んど無くなっていた。代わりに、グスマン首相がKOICA(韓国のJICAに相当)援助による「郵便局」本部建物落成式に出席、郵便配達事業が端緒についた、だとか、アルフレド・ピレス天然資源担当国務長官が新たに、ティモール海天然ガス事業にかかわる優秀な人材5名をリクルート、などの前向きな国創りが進んでいる、などの記事報道が増えてきたとの印象を持った。

 

シャナナ・グスマン首相

 

 グスマン首相人柄については「正友75号」(東京銀行OB会報平成17年10月号)「東ティモール そしてグスマン首相」高岡淳二氏、ご参照願いたい。先ず、私も同様に「シャナナボーイズ」(シャナナ・グスマン元大統領の人柄に心酔している人達、同国への初代大使、旭大使のネーミング)の一人であることをお断りした上で以下に進める。

 

 本年4月7日に「Timor-Leste and Development Partners Meeting」が開催された。この開催にあたってのグスマン首相のスピーチ(1時間を越える)が大変印象深いので以下に抜粋(和訳)する。グスマン首相の建国への熱意、国民の生活向上、安寧秩序の回復への願いが良く伝わってくる立派なスピーチである。

 

 「独立後10年経過した今、東ティモールの過去現在及び将来の展望について考えを述べたい。
 〔苦難の過去〕

 1941年~1945年日本軍の侵攻を受けた。オーストラリアが日本軍の侵攻を防ぐ前線基地に東ティモールを選んだためと言われている。この侵攻により6万人のティモール人が死亡した。

 

 歴史学者や研究者によると、1963年ワシントンに、米国、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドの首脳が集まり、東ティモールをインドネシアに併合させるのが世界平和のためである、との合意をみた。時あたかも反植民地戦争が隆盛を極める年で、1975年に同合意は現実のものとなる。今度はインドネシアが、米国、英国、ドイツ、フランスの武器、戦車、軍隊、訓練供与の支援を受けて、我々の小規模ゲリラによる独立闘争を殲滅させるための侵略戦争を行うことになる。更に追い討ちをかけるかのように1989年にインドネシアとオーストラリアはティモール海海底油田の富を分け合う合意をする。24年間の侵略戦争の間に自分たちの権利を守るために20万人のティモール人が死亡する。

 

〔開放闘争後の暴力と融和〕

 1999年8月30日の国民投票(インドネシア併合か独立かの)につき、もう少し準備ができていれば、又はその結果を全ての関係者に受け入れられていれば、あれほどのモラル、心理的、政治的破壊からくる暴力事件や、物理的な破壊は避けられたのでは、という意見もある。だがティモール人は20年以上の長きに亘り外国からの支援もなく戦い、貧困に喘ぎ、どうしたら生き残れるかの瀬戸際で、簡単に疑心暗鬼になり、結果も考えず暴力沙汰に走る性格になったとしてもやむを得ない事である。

 

〔2006年危機〕

 この年2月、4月、5月に旧軍隊兵士と警察隊との衝突がおき、一般にはこれは軍隊と警察の関係悪化が原因と考えられているが、本当の原因はそうではなくもっと大きなところ、つまり国家の政治の脆弱さ、未熟さにあると考える。

 

〔現在及び未来〕

 我々は2008年に12.8%、2009年に12.2%の経済成長を達成した。これはひとえに効率的な財政運営、国家予算の着実な執行への変革が功を奏したものといえる。2年間連続で2桁以上の経済成長をしたことは少なくとも国民の就業機会を増加した結果であり、国内が安定し、国民が政府を信頼した結果である。

 

〔Strategic Development Plan、SDP〕

 我々は2011年から2030年までの優先的開発計画を策定した。2015年までの優先的課題を以下のように設定した。①医療、②教育、③道路網、④電気、⑤港湾、空港、⑥農業、⑦石油開発、⑧観光。5年間の政府の開発投資をGNPの30%とする。」

 

 グスマン首相は4月15日より8月末までの、国民にSDP説明のための各地訪問の途に出た。

 

むすび

 

 2002年5月20日に独立、2007年に独立後初めての国政選挙が行われ、本格的国造りは端緒についたばかりである。敬愛するグスマン首相が思い描いている国民のための国家が構築されるよう引き続き見守っていきたい。

 

2007年5月のはじめ、シャナナ・グスマン大統領(当時)と。

大統領邸での大統領府御別れ会で。

 

星野(JICA専門家)

 

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