私の見た東ティモール

オリビオさん

 

 

 アフメットの近くに、オリビオさんは住んでいます。

 

 約2年前、彼はココナツの木から落ちて下半身不随になりました。まだ36歳、尿道に管を通して排尿し、排便の世話を奥さんがしています。体の大きな人で、頑固で口が悪くて、近所の人からは遠ざけられている様子・・・。子供は7人、上は18歳から下は1歳半まで。本当ならまだまだ家計にはお父さんが必要。奥さんはココナツオイルを作ったり、キャンドルナッツという木の実を集めて売りに行ったりしてお金を作っています。でもそれだけではなくて、家では子供の世話、家事、畑、洗濯、そして、旦那の介護。会うたびに、彼女はやつれていきます。

 

 私たちがなぜ彼とかかわっているかというと、彼の村はAFMETクリニックのカバーエリアで月に1度の尿道の管(尿道カテーテル)の交換を私たちがすることになっているからです。初めは、継続性を考えてロスパロス国立病院にお願いしようと思いました。でも、私たちも目で見て知っているのです。彼らに車が無いことも、人材が足りないことも。彼らに任せたら、ケアの質は良くないだろうと思い、継続性のことも考えながらかかわっていくことになりました。彼は、マラリアや下痢、かなり深い褥創、そしてなにより、叩きのめされた、父として、男としてのプライド、家庭内での役割の喪失、恥ずかしさ・・・など様々なものと戦いながら生きています。

 

 私は彼の家に行くたびに、何ができるのか考えていました。ボロボロのこの家を、建て直してあげたい、車いすに移りやすいように高さの低いベッドを作ってあげたい、月に1度、米と野菜を届けてあげたい、褥創予防のためにやわらかいベッドマットをあげたい・・・。どれも、日本人の私にとっては大金を必要としない援助です。明日にでも始められます。でも、それではダメなんです。外国人が簡単に金銭面での援助をすることのインパクトは、計り知れないものがあるからです。例えば私がこれらを実践する。そうすると、近所の住民はもう彼を助けなくなるでしょう。「あぁ、外人が助けてるから自分たちはなんにもすることないや~。」と。そして、わたしが、アフメットが、いつか居なくなったら彼はどうなるのでしょうか?近所からも放置されることになります。それに彼にはもう一つ弱点が。それは、元気だったころとても悪い人だったということ。人の家畜を盗んだり、すぐに暴力振るったり。こんな状態になったいまでも、彼を知る人は口をそろえて彼は悪い人だというのです。外国人で村の内情を知らない私が簡単に援助などできる状況ではないのです。

 

 でも、彼を放っておくわけにはいきません。外国人としては一歩引いてみる。でも、人として、やはり放っておくことはできません。じゃあ、どうしたらいいのか??????考え続けながら日々は過ぎて行きました。ある日、大雨の日。カテーテルの調子が悪いと、彼に呼ばれました。車で彼の家に行くのは大変です。ずごい泥で、四輪駆動でもズルズル滑るほどの悪路なのです。家に着いてカテーテルの交換、それから何か必要な薬は?・・・久々に彼が起き上った姿をみて、私はびっくりしてしまいました。土気色の顔、ガリガリに痩せてしまっていました。私は、緊急性を感じました。私がグタグタ悩んでいる間に彼は死んでもおかしくない。今は継続性ではなく、死なないために何かが必要な時かも・・・。でも、インパクトのことも後々着いて回るし・・・どうしよう?私は、彼の家族であるAFMETスタッフジュベンシオさんに聞いてみました。「なんとかしたいんだけど、“外国人が援助した”という印象を避けたい。だから、あなたが食料持って行ってくれない?」彼は、「う~ん・・・。そうだね。そのうちね。」「そのうち?なんで?何か理由でもあんの?」「いや。別に。」「じゃあそのうちじゃダメ。そのうちそのうちで、死んだらどうすんの?後悔するじゃん。今できることなら今しようよ。」もしかしたら、文化的に「そのうち」になる理由があったのかもしれません。一応それを破るのはオリビオさんにとっても良くないと思い、しつこく聞いてみましたが、どうやらそういうことはない様子・・・。「じゃあ、さっそく今週の土曜日ね。行こうね。私も一緒に行くから、土曜日の市場で何か買っていこう。」

 

 土曜日、私たちは市場で米と野菜を少々、それから魚を買いました。こういう繊細なことを探る時には、やはりローカル人に頼るのが一番!とくに彼は家族だから、家族のつながりや、家の雰囲気、彼の過去、そして今。いろんな面から彼に今一番必要なものは何かを知ることができると思いました。私たちは、食材を買って、オリビオさんの家で一緒にご飯作って食べることにしました。そうすれば、私は家族と一緒に家に遊びに来た外国人。援助する側とされる側、という印象も、変な期待も避けられます。

 

 オリビオさんの家につくと、「やあ!嬉しいなぁ!こうやって来てくれるのを待ってたんだよ!」と、明るい表情で出迎えてくれました。「調子、どう・・・?」しばらく座って話しました。ご飯を作る材料は買ってきたけれど、奥さんは土曜日の市場に行っているらしく留守でした。台所、使っていいのかな?「どうする?」と目で合図を送っていると、「さって、じゃ、やりますか!」みんなで食事の支度をすることになりました。子供たちも手伝ってくれて、トウモロコシを茹でたり、魚の下ごしらえをしたり。フライパンにあった作りかけのココナッツオイルを熱してオイルにしました。そのオイルを使って調理ができます。そのうちに奥さんが帰ってきて、「やだ!汚い台所見られちゃった!ちょっと、もういいから!わたしがやるから!」と恥ずかしそうに私たちを追い払います(笑)「私も忙しいから・・・こんななのよ。掃除する暇もなくて!恥ずかしい・・。」私は、あとは奥さんに任せることにしました。あまり人の台所ひっかきまわすのもなんだしね。

 

 魚を揚げて、野菜炒めと茹でたトウモロコシ。みんなで食べました。食欲がないと言っていた彼も、ちゃんと食べている様子。「今日池に魚取りに行ったんだけど、取れなかったんだ。今度機会があったら一緒に行きたいね!」「この野菜、食べたことある?その辺で取れるんだけど、今の季節のものなんだよ。」食事が終わると、奥さんがコーヒーを入れてくれました。コーヒーには、ちゃんと砂糖が入っていました。ここでは、コーヒーには砂糖をたっぷり入れるもの。でも、砂糖は買わないと手に入りません。私はちょっと驚きました。この家で、砂糖入りのコーヒーが出るとは思っていなかったからです。

 

 「じゃ、また来るね。今度は魚を取りに行こう!」子供たちに送られながら、彼の家を後にしました。帰り道、一緒に行ってくれたジュベンシオさんに「どう思った?」と聞いてみました。私が発見したこと、それは、私が思っているほど食べ物に困っていないということでした。ジュベンシオさんは、「うん、自分もそう思う。」「何が必要だと思う?」「彼は、子供の食べるものや将来のことで頭がいっぱいなんだよ。心配でしょうがない。食べられないっていうのは食べ物が無いんじゃなくて、きっといろいろ考えすぎて食べられないってことだと思う。きっと今の彼に必要なのは気分転換できる時間かな。家族以外の話し相手とかね。」・・・・

 

 これは、私が去年の11月に書いた、未提出のレポートです。中途半端に終わっていますが、この後、私たちは時々オリビオさんを訪れようねと言う話をしたことをいまでも覚えています。この後、彼の自立を助けるため、首都ディリの障がい者支援施設に申請して車いすの支援、そして自己コントロールのトレーニングを1週間受けることもできました。私が日本に帰った時に、いくつかの教会でオリビオさんに対して寄付をしてくださり、そのお金を使って彼の交通費や生活費をサポートすることが出来ました。私たちは、残ったお金をどう使うか、検討していました。障がい者用のトイレ?ベッドマットか・・・?地味で役立つ支援。でも最近一番考えていたのは、ココナッツオイルを作るためにココナッツの実を削る機械をサポートすることでした。そうすることで、奥さんがココナッツオイルから収入を得ることができるからです。ディリから帰ってきた時、彼がよく食べるようになったと奥さんは喜んでいましたが、しばらくするとまた寝ることが多くなったようで彼女はAFMETクリニックに消毒液をもらいにきていました。「だんなさん、どう?起きたりしてる?」「うーん・・・。たまに起きるけど、寝てることも多くって。。」4月に入って彼から連絡があり、尿道カテーテルを2度交換しに行きました。1度会った時は特に変わりないように感じ、少し挨拶をしただけでした。

 

 4月30日、私とジュベンシオさんはオリビオ家訪問を計画していました。彼にあげる洋服を箱いっぱい準備していました。本当なら先週行くはずだったのですが、イースター休暇でジュベンシオさんの村に遊びに行ったため、今週になったのです。朝事務所で準備をしているとジュベンシオさんから電話がありました。「今日オリビオさんとこ、行くよね?」「サトコ、まだ聞いてないの?」「聞いてないって?」「オリビオさん、亡くなったんだよ・・・・。」「え・・・・?」

 

 4月29日の夜に、彼は突然亡くなりました。私は、あぁ、彼は死んでしまったんだ、と思い、お葬式出すの大変だろうから、少し助けてあげないと・・・とお金を出し、お米を買っていくか・・・と思った自分にハッとしました。彼は死んでしまったのです。生きている時にどう支援したらいいのかを私なりに考えていたつもりでした。でも、彼が亡くなった今、私は初めて彼の家に沢山のお米を買っていくことを許されたのです。そして少しばかりのお金を渡すことも。私は、矛盾でいっぱいになりました。矛盾しすぎていて、悲しくなりました。いつもいつも、「ティモール人は生きている人にはお金を使わないのに、死んだとたんに沢山お金を使う。」と言って批判していたのに、自分がまさに同じことをしていたのです。「支援のあり方」という複雑な事を今は考えなくていいことにして、私は思いっきり後悔しました。なんでもしてあげられたのに。美味しいものを食べさせてあげられたのに。あの人が死ぬまで、私は「支援のあり方」にこだわり続けた、と。

 

 ジュベンシオさんと相談し、ティモールの習慣に従い、コーヒー、砂糖、ろうそく、そしてお米、塩、調理用オイルを・・・。私は思いっきりお金を使いました。今まで私を止めていた何かが外れたように、思いっきり必要なものを買いました。買い物を終えて帰る途中、オリビオさんの奥さんから電話がありました。「もしもし、もう聞いたよ。亡くなったんだってね・・・。」「うん、昨日・・・、申し訳ないけど、お米も何も、本当に何にも無いの。お願い、助けて・・・。」「分かってる。もう買ったから。ジュベンシオが来たら一緒に行くからね。」

 

 その日ちょうど彼の村でAFMETはサニテーションプログラムを行っていました。土曜日、最終日。村人が集まっているところへ行き、スタッフのアジェさんを呼んで一緒に行くことにしました。私も、今日はこのプログラムに参加するつもりでした。プログラムが終わったらオリビオさんに会いに行く予定でした。よく通った彼の家に行くと、中から“泣き女”が歌う声が聞こえました。“泣き女”とは、人が亡くなるとお墓に入れるときにそばで泣きながら歌う女性たちのこと。何度かこちらのお葬式で見た感じによると、ここでは、誰かが亡くなってそこを訪れた時、素直に悲しくて泣く時も、思いを歌にして歌います。ロスパロスの華やかな柄のタイスに身を包まれて、オリビオさんはいつものベッドに横たわっていました。きれいに、身を整えられて。泣き女は布をかぶってひたすら彼のもとで泣いていました。ファタルク語で歌う言葉と涙。それが決まった儀式ではなく、彼女の本当の悲しみを歌にしていることは、隣で涙を流すアジェさんとジュベンシオさんが無言で私に教えてくれました。泣いているその人の足を見て、奥さんだと確信しました。毎週土曜日、遠いロスパロスの町まで歩いて物を売りに行く彼女のふくらはぎの筋肉とくびれて細い足首は、ここを訪れるたびに私の目を引いたからです。

 

 しばらくすると彼女はこちらを振り返りました。泣き疲れたようなその顔を見て、私は彼女を抱きしめました。涙がでました。この前彼女と話した時、彼女は一番下の子どもを抱きながら「お父さんがこんなだから、辛いねぇ!我慢ばっかりだねぇ!でも、神様が呼ばれるまでは頑張るんだよねぇ!今お父さんのことお世話しなかったら、神様に怒られちゃうもんねぇ~!」と笑いながら言っていた彼女。本当に本当に、彼女は彼に尽くしたと思います。辛かったと思いますが、我慢して、仕方なく嫌々したのではなく、心から、彼を愛していたんだと思います。「良く頑張ったね、お疲れ様・・・!」言葉にはできなかったけど、私は心の中でそう言いました。

 

 帰り道、ジュベンシオさんは「行く行くって言って、彼が死ぬまで彼を訪れなかったなんてね・・・。」と先週を今週に延期したことを後悔していました。「今日行くっていう日に死んじゃうなんてなぁ。」私も同じ気持ち。なかなか行けなくて、死んで初めて彼に会いに行ったなんて。彼は天国で呆れていることでしょう。今更来るなんて。でも、私達があたなを忘れていたわけじゃないんだよって、きっと分かってくれている。私は、「家族のことは心配しないで、出来ることはするから。」と亡くなって横たわっている彼に伝えました。生前、「自分はいいけど子供が心配。」と言っていた彼だから、きっと私に何かできることを与えてくれるでしょう。私はまた、「支援のあり方」にぶつかりながら、それでも出来ることをちょっとずつしていけたら・・・・・・。

 

 今、彼が亡くなって5カ月が経とうとしています。AFMETのプログラムは彼の村であるモタラ村で継続されており、7月には水利設備の修理が完了したため住民はセレモニーを開き、私達も参加しました。10年間水に苦労してきた住民は、本当に喜んでいました。セレモニーにはオリビオさんの奥さんや子供達も参加していて、私達を温かく迎えてくれました。子供たちは私を見ると走ってきて、抱っこされたり、話したりもしてくれるようになっていました。奥さんは、一番小さな子を抱えながら「この子の名前、オリビオに変えたの!だって、お父さんはどこって泣くのよ。お父さん居なくなっちゃったのにねぇ。でも、お父さんの事が好きだったから・・・。」彼女は、自分のことを沢山話してくれました。「うちの旦那はね、本当に素敵な人だったのよ!わたしが妊娠している時は彼が家の事全部してくれたし。お湯沸かしたりもね。他の人の家では奥さんが殴られたとか聞くけど、うちは一切そんなことなかったのよ。私達家族の事、本当に大事にしてくれた・・・。」私は、少し意外でした。表評判が最悪だった彼女の夫。でも、家では優しい夫であり、父であったのです。彼女の長い長い自慢話を聞きながら、喜びも感じました。彼女は子供たちと一緒に、前向きに生きていく力を持っていると感じたからです。この家族のために、自分に何ができるのか、何をしたらいいのか、はっきりとした答えはありません。でも、この出会いが素晴らしいものであることを祈りながら、これからも、この家族と関わっていくことが出来たらと願います。

 

 

渡邉(AFMET)

 

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